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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、国鉄八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆(八高線列車脱線転覆事故)し、死者184人、負傷者495人(戦後最悪の列車事故)を出した日です。
 八高線列車脱線転覆事故(はちこうせんれっしゃだっせんてんぷくじこ)は、当時の日本国有鉄道(国鉄)八高線東飯能駅~高麗川駅間で発生した列車脱線転覆事故でした。この日、八高線八王子駅6時48分発の高崎行き下り第三列車(C57 93が牽引する6両編成)が、東飯能駅を定刻より約7分程遅れて発車、午前7時50分頃に高麗川駅手前約1キロ付近にある20‰の下り勾配で、半径250mの急カーブに差し掛かった際に、後部四両が脱線し高さ約5mの土手から転落し、粉砕大破しました。当時、食料買出し目的の乗客を満載し、定員の3倍を超えていたと言われ、連結器やデッキも鈴なりの状態で、死者184人、負傷者495人という、戦後最悪の列車事故となります。
 事故原因は、定員の3倍を超える重量オーバーで、下り急勾配(20‰)で、充分速度が制御できず、半径250mの急カーブを曲がり切れずに後部4両が脱線し、築堤上から5.6m下の畑に転落、木造客車だったために、粉砕大破したためとされてきました。加えて、列車に速度メーターが装備されておらず(戦時中の金属供出のため速度計を撤去)機関士の目測で速度の調整が行われていたこと、ブレーキの不具合と重量オーバー、戦時中に急速養成された未熟な若い機関士(当時23歳・運転経験6ヶ月)の技量未熟とが重なったためとされています。
 尚、八高線では、1年半前の1945年(昭和20)8月24日にも、小宮駅~拝島駅間で列車の正面衝突事故も発生し、死者105人・負傷者約150人を出していました。

〇太平洋戦争後の列車大事故(死者100人以上)

・1945年(昭和20)8月24日 八高線列車正面衝突事故(死者105人・負傷者約150人)
・1947年(昭和22)2月25日 八高線列車脱線転覆事故(死者184人・負傷者495人)
・1951年(昭和26)4月24日 桜木町電車火災事故(死者106人・負傷者92人)
・1962年(昭和37)5月3日 三河島三重衝突事故(死者160人・負傷者296人)
・1963年(昭和38)11月9日 鶴見三重衝突事故(死者161人・負傷者120人)
・2005年(平成17)4月25日 宝塚線(福知山線)脱線転覆事故(死者107人・負傷者562人)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細