今日は、昭和時代前期の1940年(昭和15)に、産業報国会の全国連合組織として大日本産業報国会が結成された日です。
大日本産業報国会(だいにっぽんさんぎょうほうこくかい)は、戦時下において、労働者を戦争協力に動員することを目的として設けられた官民共同の勤労者統制組織でした。
日中戦争が全面化する中で、1938年(昭和13)7月30日に、協調会時局対策委員会第二専門委員会が作成した「労資関係調整方策」の建議に基づいて産業報国連盟が発足、自主的運動をたてまえに産業報国運動が全国的に始まります。連盟は「労資一体」、「産業報国」の理念を普及しますが、実際の指導は官憲が担うことになり、1939年(昭和14)4月28日、内務・厚生両省は知事ないしは警視総監を会長とする道府県産業報国連合会の設置を指示、警察の指導下で事業所単位に単位産業報国会(会長は社長、各役員はおおむね職制が任命される)が続々と結成され、その各府県連合会の会長に道府県知事、支部長には各管区の警察署長が就きました。
その結果会員数は、同年中に299万人、翌年には、482万人(推定組織率66%)に達します。1940年(昭和15)11月4日に第二次近衛文麿内閣は、「勤労新体制確立要綱」を閣議決定し、これに基づいて産業報国連盟は解散、同年11月23日の大日本産業報国会設立へと至りました。
同会の会長には平尾釟三郎、理事長には湯沢三千男が就き、産業報国精神の高揚、職場規律の確立、生産力増強達成などを目指します。また、労務管理、特配物資配給機関としても機能し、機関紙誌として「産業報国新聞」、「産報」、「職場の光」、「ちから」を発行しました。
1942年(昭和17)6月23日には、農業報国連盟、商業報国会、日本海運報国団、大日本青少年団、大日本婦人会と共に大政翼賛会に加わり、以後労働強化・戦争協力を労働者に強制していきます。しかし、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)9月30日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により解散しました。
以下に、大日本産業報国会の創立宣言と綱領を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇大日本産業報国会創立宣言
今や世界は未曽有の転換期に際会す。皇国亦東亜新秩序建設に任じ、世界新秩序完成に邁進せんとす。その使命洵に宏大なり。
然れども高度国防国家体制とその根幹たる新産業労働体制を確立するに非ざれば、何んぞその使命を果し得べけん。
凡そ皇国産業の真姿は、肇国の精神に基づき、全産業一体、事業一家、以て職分に奉公し皇運を扶翼し奉るにあり。全産業人は、資本経営労務の有機的一体を具現し、皇民勤労の真諦を発揮し、以て国力の増強に邁進せざるべからず。皇国躍進の基調竝に存す。我等皇国産業に与る者、夙に念ひをここに致し、洽く職場に産業報国会を組織し、産業報国精神の高揚実践に挺身し来れり。為に全産業人協心戮力の実漸く挙り、勤労の創意、能力亦大に伸暢し、産業労働界はその面目を一新せんとす。この成果と組織を総括して一大国民運動たらしむるの要今や極めて切なるものあり。
皇紀二千六百年の秋、新嘗祭の佳き日をトし、我等ここに大日本産業報国会を結成し、光輝ある新任務に就かんとす。我等の使命は、実に愛国の至情を産業報国運動に結集して曠古の国難を克服し、以て永遠不動の皇国産業道を樹立せんとするにあり。責務の重きを念ひ、決意更に新たなり。勇躍、我等行かんとす!
職場は我等にとって臣道実践の道場なり。勤労は我等にとって奉仕なり、歓喜なり、栄誉なり。手段に非ずして目的なり。艱苦欠乏何かあらん。剛健なる意志、不屈の気概、範を垂れ衆を化し、塵烟の下、響音の裡分を尽し職に生き、以て皇国の弥栄を効さむ。
右宣言す。
紀元二千六百年十一月二十三日
〇大日本産業報国会綱領
一、我等ハ国体ノ本義ニ徹シ全産業一体報告ノ実ヲアゲ以テ皇運ヲ扶翼シ奉ラムコトヲ期ス
一、我等ハ産業ノ使命ヲ体シ事業一家職分奉公ノ誠ヲ徹シ以テ皇国産業ノ興隆ニ総力ヲ竭サムコトヲ期ス
一、我等ハ勤労ノ真義ニ生キ剛健明朗ナル生活ヲ建設シ以テ国力ノ根抵ニ培ハムコトヲ期ス
国立国会図書館デジタルコレクション「大日本産業報国会要覧」より
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