今日は、明治時代後期の1892年(明治25)に、黒岩涙香により、日刊新聞「萬朝報」が創刊された日です。
「萬朝報(よろずちょうほう)」は、黒岩涙香が主筆を務めていた「都新聞」の社長と対立して退社後、東京で朝報社を設立して創刊した日刊新聞でした。「一に簡単、二に明瞭、三に痛快」の編集方針のもとに小型4ページの紙面に盛りこまれた多様な上流社会のスキャンダル記事や娯楽記事、涙香の翻訳小説で都市中・下流層の人気を博します。
1893年(明治26)に山田藤吉郎の経営していた「絵入自由新聞」(1882年9月創刊)と合併、以後は黒岩が編集、山田が経営実務を担当しました。第三面に社会記事をはでに取り扱い「三面記事」の語を生み、1900年(明治33)頃から内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客を迎え、進歩的色彩の強い言論新聞となります。
日露戦争(1904~05年)開戦前には、非戦論を唱えましたが、黒岩が開戦論に転じたため、内村、幸徳、堺らは退社しました。その後、報道体制の確立にも後れをとったため、新聞界の主流から次第に離れ、大正政変では憲政擁護を主張して一時的に人気を回復したものの、第2次大隈重信内閣を支持してから勢力を失い、1920年(大正9)10月6日の黒岩涙香の死後は衰退します。
1923年(大正12)9月1日の関東大震災で大打撃をうけ、1940年(昭和15)に「東京毎夕新聞」に吸収され、廃刊となりました。以下に、「萬朝報」発刊の辞を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇黒岩涙香とは?
明治時代から大正時代に活躍した、小説家・評論家・翻訳家・ジャーナリストです。江戸時代後期の1862年(文久2年9月29日)に、土佐国安芸郡川北村(現在の高知県安芸市川北)において、土佐藩郷士の父・黒岩市郎と母・信子の次男として生まれましたが、本名は周六と言いました。
幼少時には、藩校文武館で漢籍を学び、16歳で大阪に出て中之島専門学校(後の大阪英語学校)で英語力を身につけます。その後17歳で上京し、成立学舎や慶應義塾に入学しましたが、卒業には至りませんでした。
折からの自由民権運動に参加し、1882年(明治15)に、「北海道開拓使官有物払い下げ問題」に関する論文を書いて、官吏侮辱罪に問われ有罪となり、投獄されて労役に服します。同年に創刊された『絵入自由新聞』に入社し、2年後には主筆となって、論文や探偵小説を掲載して活躍しました。
1889年(明治22)に、『都新聞』に移り、多くの小説を書いて、評判となります。しかし、社長と対立して退社後、1892年(明治25)に朝報社を設立し、『萬朝報(よろずちょうほう)』を創刊しました。
同誌は、黒岩の『鉄仮面』ボアゴベイ原作(1892~93年)、『白髪鬼』マレー・コレリ原作(1893年)、『幽霊塔』ベンジスン夫人原作(1899~1900年)などの翻案小説連載と上流階級の腐敗を暴露したセンセーショナルなスキャンダル記事によって人気を博し、大衆新聞として一躍東京一の発行部数となります。さらに、日清戦争後は、幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦、石川三四郎などの論客を迎えて、進歩的な論陣を張り、1901年(明治34)には、社会救済を目指す理想団と称する団体を組織し、社会改良運動を起こそうとしました。
一方で、五目並べを組織化して「連珠(聯珠)(れんじゅ)」と命名、1904年(明治37)に東京連珠社を設立し段位制を制定、自ら初代名人となって高山互楽を名乗り、『聯珠真理』(1906年)を刊行したりしています。ところが、日露戦争(1904~05年)に際しては、それまで非戦論を唱えていた黒岩が、時局の進展にともない開戦論に転じたため、社員内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らが連袂退社することになりました。
それからも、大正初期の憲政擁護運動や1914年(大正3)のシーメンス事件では政府攻撃のキャンペーンを張りましたが、続く大隈内閣を擁護したことから、不評を招きます。晩年は、長男のために米問屋兼小売商の増屋商店を開業したりしましたが、1920年(大正9)10月6日、肺癌のため東京において、59歳で亡くなりました。
☆「萬朝報」発刊の辞 黒岩涙香(周六)
<目的> 萬朝報(よろづてうほう)は何が為めに発刊するや、他なし普通一般の多数民人に一目能く時勢を知るの便利を得せしめん為のみ、此 の目的あるが為めに我社は勉めて其価を廉にし其紙を狭くし其文を平易にし且つ我社の組織を独立にせり
<代価> 近年新聞紙の相場次第に騰貴し今や低きも一銭五厘以上なるに及べり、然れども今日我国今日の社会に於て一銭五厘は大金なり、人々 日々に欠く可からざる入湯の料より高く、重宝無類なる郵便はがきの価より高し、新聞紙一枚買ふには一度の入湯を廃せざる可からず、一度の音信消息(いんし んせうそく)を見合せざる可からず、否(いな)廃しても猶足らず見合せても猶届かざるなり、実際に於て真逆(まさか)に入浴を廃せずば以て新聞紙を買ふ能 はずと云ふ程の人も有るまじけれど算盤珠(そろばんだま)の上に於ては入浴を廃するに同じ音信消息を見合すに同じ、富者とて算盤玉の上に違ひは有る筈なし 此故に新聞紙の価高きは普通一般の便に非ず、多数民人の利に非ず、広く社会を益するの主意に非ず
<紙幅> 新聞紙の記事は成る可く簡単なるを宜(よ)しとす、長きは暇潰しなり、読て心力を疲れしむるなり、昼間は用事を妨ぐること多くし て夜は則ち油を費すこと多し、故に我社は勉めて記事を簡単にす、記事短かければ紙面も従て広きに及ばず、要するに新聞紙は長尻の客の如きか、長尻の客に迷 惑せし実験ある人は必ずキリヽと締りたる新聞紙の便利なるを会得せん
<文章> 陽春白雪を唱へば和する者少く下俚巴人(かりはじん)に至りて一座皆和して楽しむが如く新聞紙の文章高尚に失するときは家内中に て一番学問のある其家の旦那唯一人楽しむ可きも之を平易にし通俗にし何人にも分り易からしめば旦那の後は細君(さいくん)読み番頭読み小僧読み下女下男読 み詰(つま)る所一銭の価にて家内中皆益するが故に此上なき安きものなり一人頭(ひとりあたま)には一厘に足らぬ事ともならん一家経済の秘伝は此辺に在り と知る可し
<独立> 此頃の新聞紙は「間夫(まぶ)が無くては勤まらぬ」と唱ふ売色遊女の如く皆内々に間夫を有し其機関と為(な)れり、独り公やけに 我は自由党機関なりと大声狂呼する自由新聞が猶(まだ)しも男らしき程の次第ぞかし、或は政府或は政党或は野心ある民間の政治家、或は金力ある商界の大頭 皆な新聞紙の間夫なり、斯(かか)る新聞紙に頼(よ)りて普通一般の民人が真成の事実を知り公平の議論を聞かんこと覚束(おぼつか)なし、我社幸か不幸か 独立孤行なり、政府を知らず政党を知らず何ぞ況(いは)んや野心ある政治家をや、又況んや大頭なる者をや、嗚呼(ああ)我社は唯だ正直一方道理一徹あるを 知るのみ、若(も)し夫れ偏頗(へんぱ)の論を聞き陰険邪曲の記事を見んと欲する者は去て他の新聞を読め
「萬朝報」創刊号(明治25年11月1日発行)より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1847年(弘化4) | 自由民権思想家中江兆民の誕生日(新暦12月8日) | 詳細 |
1868年(明治元) | 灯台記念日(日本最初の洋式灯台である観音埼灯台起工日の新暦換算日) | 詳細 |
1961年(昭和36) | 国会議事堂わきの現在地に、国立国会図書館本館が開館する | 詳細 |
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