今日は、戦国時代の1552年(天文21)に、織田信長・信光と坂井大膳・甚助によって、尾張国で萱津の戦いが行われた日ですが、新暦では9月4日となります。
萱津の戦い(かやづのたたかい)は、戦国時代の1552年(天文21年8月16日)に、尾張国海東郡萱津において、尾張守護代清州織田家「織田信友」重臣の坂井大膳・甚助と織田信長・信光との間で行われた戦いでした。清須方の坂井大膳・甚助らが、信長方の深田城(現在の愛知県海部郡大治町西條字城前田)と松葉城(現在の愛知県海部郡大治町西條字南屋敷)を攻め落とし、城主の織田伊賀守と織田信次を人質とします。
これに対し、織田信長は那古野城を出陣し、守山城から駆けつけて来た織田信光(信長の叔父で信次の兄)と稲庭地(現在の名古屋市中村区稲葉地)の庄内川畔で合流し、反撃に出ました。信長方は、清須を攻める信長本隊、松葉城攻撃隊と深田城攻撃隊の3つに軍勢を分け、庄内川を渡って各方面へ進出します。
清洲方面へ向かった信長本隊は萱津ヶ原(現在の愛知県あま市上萱津)で南下してきた清須方と東西に陣を敷いて対峙し、午前八時頃に開戦しました。数時間に及んだ戦いの末、双方が50名ほどの死者を出しましたが、信長方の柴田勝家が坂井大全の弟である坂井甚介を打ち取るなどして、信長方が勝利し、清須方は清須城へ逃げ帰ります。
また、松葉城攻撃隊と深田城攻撃隊においても信長方が勝利し、2つの城を奪還しました。尚、愛知県あま市上萱津には、近年まで戦死者を葬ったとされる塚がいくつか残されていましたが、耕地整理等によって壊され、代わりに「萱津古戦場跡碑」が建てられています。
以下に、萱津の戦いを記した『信長公記』首巻十二段の部分を現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照ください。
〇萱津の戦い(『信長公記』首巻十二段) 1552年(天文21年8月16日)
深田・松葉両城手かはりの事
一、八月十五日[1]に清洲[2]より坂井大膳[3]、坂井甚介、河尻与一、織田三位申し談じ、松葉[4]の城へ懸け入り、織田伊賀守人質を取り、同松葉[4]の並びに、
一、深田[5]と云ふ所に織田右衛門尉[6]居城、是れ叉、押し並べて両城同前なり。人質を執り堅め、御敵の色を立てられ侯。
一、織田上総介信長[7]、御年十九の暮八月、此の由をきかせられ、八月十六日払暁[8]に那古野[98]を御立ちなされ、稲庭地[10]の川端[11]まで御出勢、守山[12]より織田孫三郎[13]殿懸け付けさせられ、松葉[4]口、三本木[14]口、清洲[2]口、三方手分けを仰せ付けられ、いなばぢの川[15]をこし、上総介、孫三郎殿一手になり、海津[16]ロヘ御かかり侯。
一、清洲[2]より三十町計り踏み出だし、海津[16]と申す村へ移り侯。
信長八月十六日辰の刻、東へ向つてかかり合ひ、数刻、火花をちらし相戦ふ。
孫三郎殿手前にて、小姓立[17]の赤瀬清六とて、数度武篇いたすおぼえの仁体、先を争ひ、坂井甚介に渡り合ひ、散貼に暫く相戦ひ、討死。終に清洲[2]衆切り負け、片長、坂井甚介討死。頸は中条小一郎[18]、柴田権六[19]相討つなり。此の外、討死、坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与を初めとして、歴々五十騎計り、枕をならべて討死。
一、松葉[4]口廿町計りに取出惣構[20]へを相拘へ、追入れられ、真島の大門崎[21]つまり[22]に相支へ、辰の刻より午の刻まで取合ひ、数刻の矢軍に手負数多出来、無人になり、引き退く所にて、赤林孫七、土蔵弥介、足立清六うたせ、本城へ取り入るなり。
一、深田[5]口の事、三十町計りふみ出し、三本木[14]の町を相拘へられ侯。要害[23]これなき所に侯の間、即時に追ひ崩され、伊東弥三郎、小坂井久蔵を初めとして、究竟[24]の侍三十余人討死。これによつて、深田[5]の城、松葉[4]の城、両城へ御人数寄せられ侯。降参申し、相渡し、清洲[2]へ一手につぽみ[25]侯。上総介信長、是れより清洲[2]を推し詰め、田畠薙[26]させられ、御取合ひ初まるなり。
【注釈】
[1]八月十五日:天文21年(1552年)8月15日のこと。
[2]清州:愛知県清須市で、当時の織田信友(大和守)の居城清州城があったところ。
[3]坂井大膳:尾張守護代の織田信友(大和守)の重臣。
[4]松葉:愛知県海部郡大治町西條字南屋敷で、当時松葉城があり、織田伊賀守の居城となっていた。
[5]深田:愛知県海部郡大治町西條字城前田で、当時深田城があり、織田信次(右衛門尉)の居城となっていた。
[6]織田右衛門尉:織田信次のことで、織田信定の子で、右衛門尉を名乗り、当時は深田城主だった。
[7]織田上総介信長:織田信長のことで、織田信秀の子で、上総介を名乗り、当時は那古野城主だった。
[8]払暁:夜明け、明け方のこと。
[9]那古野:名古屋市中区で、当時那古野城があり、織田信長(上総介)の居城となっていた。
[10]稲庭地:名古屋市中村区稲葉地のこと。
[11]川端:当時の庄内川の岸を指している。
[12]守山:名古屋市守山区で、当時守山城があり、織田孫三郎の居城となっていた。
[13]織田孫三郎:織田信光のことで、通称は孫三郎、織田信定の子で、信長の叔父にあたり、当時は守山城主だった。
[14]三本木:愛知県海部郡大治村三本木のこと。
[15]いなばぢの川:庄内川のこと。
[16]海津:愛知県あま市上萱津のことで、萱津合戦の戦場となり、近年までいくつかの塚が残されていた。
[17]小姓立:小姓上がりの侍のこと。
[18]中条小一郎:中条家忠のことで、織田信長の家臣で、後に八草城・広見城主になった。
[19]柴田権六:柴田勝家のことで、織田信秀の家臣、さらに信長の重臣として、諸国を転戦して武功を上げた。
[20]惣構:城の外郭のこと。
[21]真島の大門崎:愛知県海部郡大治町真島の大門崎のこと。
[22]つまり:詰り、すみのこと。
[23]要害:城砦、守り堅固なところのこと。
[24]究竟:屈強、極めて力の強いこと。
[25]つぼみ:撤収すること。
[26]田畠薙:田畑の作物を刈り取ってしまうこと。
<現代語訳>
深田・松葉両城手かはりの事
一、八月十五日に清州方の坂井大膳、坂井甚介、河尻与一、織田三位が申し合わせて、松葉城に攻め込み、その城主織田伊賀守を人質に取った。また松葉城の並びにある、
一、深田と言われる所の織田右衛門尉の居城もまた同様に攻め込まれ、人質を取られて、敵対関係が明らかになった。
一、織田上総介信長は、御年19歳の暮れの8月だったが、この報告を聞き、8月16日明け方に那古野城を出陣すると、稲庭地(稲葉地)の庄内川畔まで出て、守山から織田孫三郎信光が駆けつけて来て、松葉口・三本木口・清洲口と三つに分かれて攻めるように言われ、自身は庄内川を越えて、信長と信光は一団となって、海津(萱津)口へ攻め込んだ。
一、清洲から三十町ほど踏み出した、海津(萱津)という村に移動した。
信長は、8月16日辰の刻(午前8時頃)に東に向かって戦端を開き、数時間火花を散らした戦いとなった。
信光の家臣で小姓上がりの赤瀬清六という者は、幾度か武功もあったが、この戦でも先陣を争い、坂井甚介に攻めかかったものの、激しい戦闘の末に討ち死にしてしまった。終には清洲方が負け、片長、坂井甚介は討死した。その首は、中条家忠と柴田勝家がともに打ち取ったという。この他に、討死したのは坂井彦左衛門、黒部源介、野村、海老半兵衛、乾丹波守、山口勘兵衛、堤伊与をはじめとして、歴々50騎ほど枕を並べての討ち死にであった。
一、松葉口へは、二十町ばかり踏み出し、城の外郭の中へ清洲方を追い入れ、真島の大門崎へ詰めて、辰の刻から午の刻(約午前8時から正午頃)まで戦われ、数時間の矢合わせで、敵には負傷者が多数出て、戦える人もいなくなり、撤退していく際に、赤林孫七、土蔵弥介、足立清六が討ち取られ、本城に退却した。
一、深田口では、三十町ばかり踏み出し、三本木の町を取り囲んだが、これといって守り堅固の場所でもなかったので、たちまちのうちに追い崩されて、伊藤弥三郎、小坂井久蔵をはじめとして、屈強の侍が30人余り討死した。これによって、深田城・松葉城の両方に、信長方が押し寄せると、清洲方は降参して城を明け渡し、清洲へ一団となって撤収した。信長方は、これより追撃して清州へと至り、田畑の作物を刈り取り、以後両者の敵対関係が継続することとなった。
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