今日は、古墳時代の雄略天皇23年(479年?)に、第21代の天皇とされる雄略天皇の亡くなった日(『日本書紀』による)です。
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、生年は不詳ですが、父は允恭天皇の第五皇子(母は忍坂大中姫命)とされ、名は『日本書紀』では大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)、『古事記』では大長谷若建命(おおはつせわかたけるのみこと)とされてきました。記紀によれば、同母兄の安康天皇を殺害した眉輪王(まゆわのおおきみ)を誅し、さらに履中天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)らをも殺して、泊瀬朝倉宮に即位したとされています。
平群臣真鳥(へぐりのおみまとり)を大臣に、大伴連室屋と物部連目を大連とし、秦氏や漢氏をはじめ渡来人をも重用して王権を強化、諸氏族の反乱を鎮圧し、朝鮮半島の乱れに乗じて、百済や新羅、高麗への影響力強化を画策するなど、対外関係においても注目すべきことが伝えられてきました。また、『宋書』倭国伝にみえる倭王武は雄略天皇に比定され、478年に南朝宋へ遣使上表し、「使持節都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸事事安東大将軍倭王」に任命され、『南斉書』には479年に倭王武が鎮東大将軍になったと記されています。
そして、『日本書紀』によれば、雄略天皇22年1月1日に白髪皇子(後の22代清寧天皇)を皇太子とし、翌年8月7日に病いのために数え年62歳で亡くなり、陵墓は丹比高鷲原陵(現在の大阪府羽曳野市島泉)とされてきました。尚、埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘「獲加多支鹵大王」と熊本県江田船山古墳出土大刀銘「獲〇〇〇鹵大王」は、雄略天皇に比定されています。
以下に、参考のため『宋書』倭国伝を掲載しておきましたので、御参照下さい。
〇『宋書』倭国伝とは?
中国の『宋書』夷蛮伝の東夷の条に属している倭国伝のことです。『宋書』は、中国南朝の宋(420 ~ 479年)について書かれた歴史書、本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる紀伝体のもので、沈約が斉の武帝に命ぜられて編纂しました。夷蛮伝は、宋朝と諸国の交渉記事中心に記述されていて、倭国伝には、“倭の五王”(讃・珍・済・興・武)と呼ばれる日本の支配者から朝貢が行われたことが書かれています。その中で、讃は応神・仁徳・履中のいずれか、珍は仁徳か反正、済は允恭、興は安康、武は雄略の各天皇に比定されてきました。ここに記された武(雄略天皇)の上表文は有名です。
☆『宋書』倭国伝
<原文>
倭國在高驪東南大海中丗修貢職
髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣貢獻
丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
<読み下し文>
倭国は高驪[1]の東南、大海の中にあり、世々貢職[2]を修む。
高祖[3]の永初二年[4]、詔して日く、「倭の讃[5]、万里[6]貢を修む。遠誠宣しくあらわすべく、除授を賜ふ[7]べし」と。
太祖[8]の元嘉二年[9]、讃[5]また司馬曹達を遣わして表を奉り方物[10]を献ず。
讃[5]死して弟珍[11]立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して除正せられん[18]ことを求む。詔して安東将軍倭国王に除す。
珍[11]また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに聴す。
二十年、倭国王済[19]、使を遣はして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。
二十八年、使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に除す。済[19]死す。世子[21]興[22]、使を遣わして貢献す。
世祖[23]の大明六年[24]、詔して曰く、「倭王世子[21]興[22]、奕世戴ち忠、藩[25]を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職[2]を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」と。興[22]死して弟武[26]立ち、自ら使持節都督[12]倭・百済[13]・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。
順帝[27]の昇明二年[28]、使を遣わして上表[29]して曰く、「封国[30]は偏遠にして、藩[25]を外に作す[31]。昔より祖禰[32]、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉[33]して、寧処[34]に遑あらず。東は毛人[35]を征すること五十五国、西は衆夷[36]を服すること六十六国を渡りて海北[37]を平ぐること九十九国。王道融泰[38]にして、土を廓き畿を遐にす累葉朝宗して歳に愆たず。臣、下愚[39]なりといえども、忝なくも先緒[40]を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極[41]に帰崇[42]し、道百済[13]を遙て、船舫[43]を装治[44]す。而るに句驪[45]無道[46]にして、図りて見呑せんと欲し、辺隷[47]を掠抄[48]し、虔劉[49]して巳まず。毎に稽滞[50]を致し、以って良風を失い、路に進と日うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考済[19]、実に寇讐[51]の天路を壅塞[52]するを忿り、控弦[53]百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功[54]をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇[55]にあり兵甲[56]を動かさず。これを以て、偃息[57]して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父・兄の志しを申べんと欲す。義士[58]虎賁[59]、文武功を効し、自刃前に交わるとも亦顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司[60]を仮し、その余は咸な仮授[61]して以て忠節を勧む」と。詔して武[26]を使持節都督[12]倭・新羅[14]・任那[15]・加羅[20]・秦韓[16]・慕韓[17]六国諸軍事安東大将軍倭王に叙す。
【注釈】
[1]高驪:こうらい=高句麗。朝鮮三国の一つで、朝鮮半島北部にあった。
[2]貢職:こうしょく=貢物。貢献物。
[3]高祖:こうそ=宋の初代皇帝武帝。
[4]永初二年:えいしょにねん=武帝の年号で、西暦では421年。
[5]讃:さん=応神天皇、仁徳天皇、履中天皇に比定する説がある。
[6]万里:ばんり=非常に遠い距離。きわめて遠いこと。
[7]除授を賜ふ:じょじゅをたまふ=官職・爵位を授ける。
[8]太祖:たいそ=宋の第三代皇帝文帝。
[9]元嘉二年:げんかにねん=文帝の年号で、西暦では425年。
[10]方物:ほうぶつ=その地方の産物。土産。
[11]珍:ちん=仁徳天皇、反正天皇に比定する説がある。
[12]使持節都督:しじせつととく=支配を委ねられた地域の最上級軍政官。
[13]百済:くだら=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南西部にあった。
[14]新羅:しらぎ=朝鮮三国の一つで、朝鮮半島南東部にあった。
[15]任那:みなま=朝鮮半島南部にあった日本の植民地。
[16]秦韓:しんかん=朝鮮半島南東部の地域。
[17]慕韓:ぼかん=朝鮮半島南西部の地域。
[18]表して除正せられん:ひょうしてじょせいせられん=文書で正式に任命されること。
[19]済:せい=允恭天皇に比定されている。
[20]加羅:から=任那諸国中の一国。
[21]世子:せし=跡継ぎ。
[22]興:こう=安康天皇に比定されている。
[23]世祖:せそ=宋の第四代皇帝孝武帝。
[24]大明六年:だいめいろくねん=孝武帝の年号で、西暦では462年。
[25]藩:はん=領域のこと。
[26]武:ぶ=雄略天皇に比定されている。
[27]順帝:じゅんてい=宋の第八代皇帝順帝。
[28]昇明二年:しょうめいにねん=順帝の年号で、西暦では478年。
[29]上表:じょうひょう=君主に文書をたてまつること。また、その文書。上書。上疏。
[30]封国:ほうこく=王として封ぜられた国。宋から支配を任された国。
[31]外に作す:そとになす=遠いところにある。
[32]祖禰:そでい=祖先。
[33]跋渉:ばっしょう=山野を越え、川をわたり、各地を歩き回ること。
[34]寧処:ねいしょ=やすらかな所。安んずる処。また、やすらかに居ること。
[35]毛人:もうじん=東方の服属していない人々。蝦夷か?
[36]衆夷:しゅうい=西方の服属していない人々。九州南部か?
[37]海北:かいほく=朝鮮半島か?
[38]融泰:ゆうたい=行き届いていて、平安である。
[39]下愚:かぐ=はなはだ愚かであること。また、その人。至愚。
[40]先緒:せんしょ=先人の遺した事業。先祖の遺業。前緒。
[41]天極:てんきょく=地軸の延長と天球との交点。北極星。
[42]帰崇:きすう=すぐれたものを深く信仰し、その教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じること。
[43]船舫:ふなもやい=船をつなぎとめること。船を進めないで一か所に止めておくこと。ふなもよい。
[44]装治:そうち=旅装を整える。旅支度をする。
[45]句驪:くり=高句麗のこと。
[46]無道:ぶどう=人の道にはずれること。また、そのさま。非道。
[47]辺隷:へんれい=国境の人民。
[48]掠抄:りゃくしょう=かすめとること。
[49]虔劉:けんりゅう=むりに奪いとったり、殺したりする。
[50]稽滞:けいりゅう=とどこおる。停留。
[51]寇讐:こうしゅう=敵。かたき。
[52]壅塞:ようそく=ふさぐこと。また、ふさがること。
[53]控弦:こうげん=弓を引くこと。また、その兵士。
[54]垂成の功:すいせいのこう=完全な成功。
[55]諒闇:りょうあん=天皇が、その父母の死にあたり喪に服する期間。
[56]兵甲:へいこう=武器と甲冑(かっちゅう)。転じて、兵士。また、いくさ。
[57]偃息:えんそく=くつろいでやすむこと。休息。
[58]義士:ぎし=義を守り行なう士。節義の人。高節の士。義人。
[59]虎賁:こほん=剛勇をもって主君に仕える人。
[60]開府儀同三司:かいふぎどうさんし=従一位の唐名。もと中国の官名で、漢代末期から開府の制度がはじまり、その中でとくに重んぜられて、三公(三司)と同じ儀制を認められた者の呼び名。
[61]仮授:かじゅ=許し授ける。
<現代語訳>
倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々貢物を送ってきていた。
高祖(宋の武帝)の永初2年(421年)に、詔して言うには、「倭王の讃は、とても遠い所から貢物を献上してきた。遠方からの誠意に報いて、官職を授けよう。」と。
太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425年)、讃王はまた司馬曹達を遣わして、上表文を奉り、倭の特産物を献上した。
讃王が死んで、弟の珍が王となった。使者を遣わして貢物を献上し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、文書で正式に任命されることを求めてきた。詔を下して安東将軍倭国王に任じた。
珍王はまた倭隋等13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に任命されんことを求めた。詔を下して同じように聞き入れた。
元嘉20年(443年)、倭国王の済は、使者を遣わして貢物を献上してきた。そこで安東将軍倭国王に任命した。
元嘉28年(451年)、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事の官職を加え、安東将軍はそのままとした。同じく上奏していた23人を将軍や郡長官に任命した。済王が死に、跡継ぎの興が、使者を遣はして貢物を献上してきた。
世祖(宋の孝武帝)の大明6年(462年)、詔して言うには、「倭王の跡継ぎ興は、これまでと変わらず忠節を重ね、領域を守る外海の垣根となり、中国の感化をうけて辺境を守り、うやうやしく貢物を献上し、新たにその守りを嗣いだ。よろしく爵号を授けるべきで、安東将軍倭国王とする。」と。興王が死に、弟の武が王となり、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称した。
宋の順帝の昇明2年(478年)、使者を遣わして上表文を奉って言うには、「封ぜられた国ははるか遠くにあり、領域の外側を形成しています。昔より祖先は、自ら甲冑を身に着け、山野を越え、川をわたり、各地を歩き回って、安んずる暇もありませんでした。東は蝦夷を征すること55国、西は熊襲等を服属させること66国、海を渡って朝鮮半島を平定すること99国となります。王権が行き届いて平安で、封土も広大です。我が国は先祖代々中国の天子に拝謁するのに、毎年時節をたがえ誤ることはありませんでした。私は、はなはだ愚かではありますが、かたじけなくも先祖の遺業を継いで、統治下にある人々を駆り率い、中国の教えに従い、その威徳を仰ぎ、尊び信じ、往来の道は百済を経由すべく、船をつなぎとめて旅装を整えています。しかし、高句麗は人の道にはずれ、はかりごとをしてこれを飲み込もうとして、国境の人民を略奪、殺害しています。そのどれもが滞ってしまい、従って良い風を失い、航路を進もうとしても、あるいは通じ、あるいは通ぜずといった状態です。わたくしの亡父の済は、実に敵(高句麗)の中国への路をふさぐことを怒り、弓矢をもつ兵士百万、正義の声に感激して、まさに大挙して向かおうとしましたが、にわかに父(済王)と兄(興王)を失ってしまい、完全な成功を成すための最後の一撃を加えることが出来ませんでした。そのまま喪に服する期間にあたり、兵士を動かさず。このようなわけで、休止せざるを得ず、いまだに戦いに勝つことが出来ないでいます。今に至って、武器を整え兵を訓練して、父・兄の志しを果たしたいと欲しています。義士も勇士も文官も武官も力を発揮して、敵と刃を交えようともおのれを顧み怯むことなどありません。もし皇帝の徳を以て援護していただけたら、この強敵を打ち破ることも、また我が地の乱れを収めることも、今までの功績に見劣りすることなどはないでしょう。ひそかに自ら開府儀同三司の任を負わせ、その他の部下・諸将にもみな許し授けていただければ、もって忠節を勧むでしょう。」と。詔を下して、武王を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王に任命した。
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