今日は、江戸時代後期の1853年(嘉永6)に、江戸幕府第12代将軍徳川家慶が亡くなった日ですが、新暦では7月27日となります。
徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、1793年(寛政5年5月14日)に、江戸城内において、第11代将軍徳川家斉の次男(母はお楽の方)として生まれましたが、幼名は敏治郎と言いました。兄竹千代が夭折したので、将軍継嗣となり、1797年(寛政9)に従二位権大納言に叙任され、元服して家慶を名乗ります。
1816年(文化13)に右近衛大将を兼任し、1822年(文政5)には、正二位内大臣に昇叙転任しました。1824年(文政7)に四男政之助(のちの第13代将軍徳川家定)が生まれ、1827年(文政10)には、従一位に昇叙します。
1837年(天保8)に、45歳で父・家斉から譲られ、左大臣に転任して、第12代将軍となったものの、父が大御所として実権を握り続けました。その中で、1839年(天保10)に渡辺崋山、高野長英らを処罰する事件(蛮社の獄)が起きます。
1841年(天保12)に、父・家斉が亡くなると、家斉側近を排し、水野忠邦を重用して天保の改革を断行させ、内憂外患の危機打開を図ろうとしました。「株仲間解散令」、遭難した船に限り薪水の給与を認める「天保の薪水給与令」、「人返しの法」、江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした「上知令」、「無利子年賦返済令」などを立て続けに発令します。
しかし、急激にすぎて多くの反発を招き、2年余りで挫折、忠邦は失脚、その後、阿部正弘を老中首座に起用し、海防問題の難局に対処しました。しかし、1853年(嘉永6)にアメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、難局に直面する中、同年6月22日に、江戸城内において、数え年61歳で亡くなっています。
〇徳川家慶関係略年表(日付は旧暦です)
・1793年(寛政5年5月14日) 江戸城において、第11代将軍徳川家斉の次男(母はお楽の方)として生まれる
・1793年(寛政5年) 兄竹千代が夭折する
・1797年(寛政9年3月1日) 従二位権大納言に叙任、元服して家慶を名乗る
・1816年(文化13年4月2日) 右近衛大将を兼任する
・1822年(文政5年3月5日) 正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将の兼任元の如し
・1824年(文政7年4月8日) 四男政之助(のちの第13代将軍徳川家定)が生まれる
・1827年(文政10年3月18日) 従一位に昇叙し、内大臣右近衛大将元の如し
・1837年(天保8年9月2日) 左大臣に転任し、征夷大将軍・源氏長者宣下、右近衛大将は同日、世子徳川家定が兼任する
・1839年(天保10年) 渡辺崋山、高野長英らを処罰する(蛮社の獄)
・1841年(天保12年閏1月7日) 父・家斉が亡くなる
・1841年(天保12年5月15日) 享保・寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、天保の改革が始まる
・1841年(天保12年12月13日) 最初の「株仲間解散令」が出される
・1842年(天保13年) 遭難した船に限り薪水の給与を認める「天保の薪水給与令」を発令する
・1843年(天保14年) 「人返しの法」が制定される
・1843年(天保14年) 江戸・大坂周辺の大名・旗本領の幕府直轄領編入を目的とした「上知令」を発令する
・1843年(天保14年) 「無利子年賦返済令」を発令する
・1853年(嘉永6年6月3日) アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れる(黒船来航)
・1853年(嘉永6年8月21日) 正一位太政大臣を贈られる
・1853年(嘉永6年6月22日) 江戸城において、数え年年61歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1945年(昭和20) | 「戦時緊急措置法」が公布される(本土決戦に備えて政府に委任立法権を規定) | 詳細 |
1965年(昭和40) | 日本と大韓民国との間で、「日韓基本条約」が調印される | 詳細 |
1972年(昭和47) | 「自然環境保全法」(昭和47年法律第85号)が制定・公布される | 詳細 |
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