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 今日は、幕末明治維新期の1869年(明治2)に、「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」(明治2年6月17日太政官達)が出された日ですが、新暦では7月25日となります。
 「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス(くぎょうしょこうのしょうをはいしあらためてかぞくとしょうす)」は、従来の身分制度の公卿・諸侯の呼称を廃止し、華族とすることが定められた太政官達で、「版籍奉還」の布告と同時に出されました。明治維新以前は清華家(摂関家に次いで大臣家の上に位し、大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる家柄)の別称でしたが、従来の公家と諸侯を合わせて華族と称し、士族の上位におかれて、天皇より四民の範となるよう諭され、家禄も政府から支給されることになります。
 この時、公家137家、諸侯270家、明治維新後に公家となった家5家、維新後に諸侯となった家15家の合計427家が華族とされました。その後、1884年(明治17)の「華族令」(明治17年宮内省達)によって公・侯・伯・子・男の5爵が設けられ、従来の公卿、諸侯のほか明治維新およびその後国家に勲功のあった政治家、軍人などにも与えられるようになります。
 そして、華族は世襲で貴族院議員となったり、これを互選する権利、家督相続人の爵位の世襲制、「華族世襲財産法」や華族銀行たる第十五国立銀行の創立による華族財産の特別保護と管理などの特権が伴い、皇族と並ぶ特殊な身分を形成しました。しかし、太平洋戦争後の1947年(昭和22)5月3日の「日本国憲法」施行によって華族制度は廃止されています。
 以下に、「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」(明治2年6月17日太政官達)などの資料を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」(明治2年6月17日太政官達)

官武一途上下共同の思召をもって自今、公卿諸侯の称、被廃改て華族と可称旨、被仰出候事

 但官位は、可為これまでの通事

〇「岩倉公実記」下巻1の明治2年6月17日の記述

 公卿諸侯ヲ華族ト稱シ知藩事ヲ置ク事

六月十七日公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス其達書ニ曰ク
 官武一途上下協同之思食ヲ以テ自今公卿諸侯之稱ヲ被廢改テ家族ト可稱旨被仰出候事
  但官位ハ可爲是迄之通候事

    「国立国会図書館デジタルコレクション」より

〇「華族令」(明治17年宮内省達) 1884年(明治17)7月7日布達

第一條 凡ソ爵ヲ授クルハ 勅旨ヲ以テシ宮內卿之ヲ奉行ス

第二條 爵ヲ分テ公侯伯子男ノ五等トス

第三條 爵ハ男子嫡長ノ順序ニ依リ之ヲ襲カシム女子ハ爵ヲ襲クコトヲ得ス但現在女戶主ノ華族ハ將來相續ノ男子ヲ定ムルトキニ於テ親戚中同族ノ者ノ連署ヲ以テ宮內卿ヲ經由シ授爵ヲ請願スヘシ

第四條 嗣今有爵者又ハ戶主死亡ノ後男子ノ相續スヘキ者ナキトキハ華族ノ榮典ヲ失フヘシ

第五條 有爵者ノ婦ハ其夫ニ均シキ禮遇及名稱ヲ享ク

第六條 華族戶主ノ戶籍ニ屬スル祖父母、父母及妻及嫡長子孫及其妻ハ俱ニ華族ノ禮遇ヲ享ク

第七條 本人生存中相續人ヲシテ爵ヲ襲カシムルコトヲ得ス

但刑法又ハ懲戒ノ處分ニ由リ爵ヲ奪ヒ又ハ族籍ヲ削ラレ更ニ特旨ヲ以テ相續人ニ授クル者ハ此例ニ在ラス

第八條 華族ノ戶籍及身分ハ宮內卿之ヲ管掌ス

第九條 華族及華族ノ子弟婚姻シ又ハ養子セントスル者ハ先ツ宮內卿ノ許可ヲ受クヘシ

第十條 華族ハ其子弟ヲシテ相當ノ敎育ヲ受ケシムルノ義務ヲ負フヘシ

      「ウィキソース」より

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