今日は、鎌倉時代の1206年(建永元)に、浄土宗の僧重源が亡くなった日ですが、新暦では7月12日となります。
重源(ちょうげん)は、平安時代後期の1121年(保安2)に、紀季重(きのすえしげ)の子として生まれましたが、名は刑部左衛門尉重定と称していました。1133年(長承2年)の13歳の時、真言宗の醍醐寺に入って出家、金剛王院源運に密教を学びます。
また、高野山に登り、法然(源空)に就いて浄土教を研究すると共に、四国や大峯を修行して歩いたとされてきました。1167年 (仁安2) ~1176年 (安元2) に3回宋に留学したと言われ、3回目に栄西と出会い、天台山、阿育王山に登ったと伝えられ、いっしょに帰国しています。
その後、1171年(承安元)頃に建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、周防国徳地から用材を調達、1176年(安元2)には高野山延寿院に梵鐘を施入した記録が残されました。1180年(治承4)に東大寺が平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失すると、翌年に被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就きます。
諸国を回って勧進に努め、宋人陳和卿の協力を得て大仏の鋳造を行い、1184年(寿永3)にほぼ完成させ、翌年には、大仏の開眼供養が行われました。さらに諸堂の建立にあたり、1186年(文治2)に東大寺建立祈願のため、東大寺の僧綱以下衆徒を率いて伊勢へ参宮、大般若経を転読供養するなど努力を重ね、1195年(建久6)に大仏殿を完成させ、この功をもって大和尚位に叙せられます。
引き続いて、大仏殿の脇侍や四天王像、戒壇院、鎮守八幡宮、南大門を造立し、1203年(建仁3)には、東大寺総供養を迎えました。その一方で、1186年(文治2)に南都の明遍、貞慶ら学匠とともに京都大原勝林院において、大原問答に列し、1190年(建久元)には、法然を東大寺に招き半作の大仏殿において「観経曼陀羅」「浄土五祖像」をかけ供養・讃歎したと伝えられています。
また、周防阿弥陀寺、播磨浄土寺、伊賀新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立すると共に、備前の船坂山を開き、播磨の魚住泊の修築、摂津渡辺橋・長柄橋などの架橋、河内狭山池の改修、湯屋の勧進を行うなど、社会救済事業にも尽くしましたが、1206年(建永元年6月5日)に、奈良の東大寺において、数え年86歳で亡くなりました。
〇重源関係略年表(日付は旧暦です)
・1121年(保安2年) 紀季重(きのすえしげ)の子として生まれる
・1133年(長承2年) 13歳の時、真言宗の醍醐寺に入り、出家する
・1167年(仁安2年) 入宋し栄西と出会い、天台山、阿育王山に登ったと伝えられる
・1168年(仁安3年) 栄西とともに帰国する
・1171年(承安元年)頃 建立が始まった博多の誓願寺の本尊を制作する際に、周防国徳地から用材を調達する
・1176年(安元2年) 高野山延寿院に梵鐘を施入する
・1180年(治承4年) 東大寺が平重衡の南都焼討によって伽藍の大部分を焼失する
・1181年(養和元年) 被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就く
・1184年(寿永3年6月) 宋人陳和卿の協力を得て大仏の鋳造をほぼ完成する
・1185年(文治元年8月28日) 大仏の開眼供養が行われる
・1186年(文治2年4月) 東大寺建立祈願のため、東大寺の僧綱以下衆徒を率いて伊勢へ参宮、大般若経を転読供養する
・1186年(文治2年) 南都の明遍、貞慶ら学匠とともに京都大原勝林院において、大原問答に列する
・1190年(建久元年) 大部荘が与えられ、宋人の鋳物師陳和卿(ちんなけい)にあてがわれる
・1190年(建久元年) 法然を東大寺に招き半作の大仏殿において「観経曼陀羅」「浄土五祖像」をかけ供養・讃歎したと伝えられる
・1195年(建久6年) 大仏殿を再建する
・1197年(建久8年) 鉄製多宝塔(国宝として現存)を鋳造し、阿弥陀寺創建の由来を刻みこむ
・1203年(建仁3年) 東大寺総供養を行なう
・1206年(建永元年6月5日) 奈良の東大寺において、数え年86歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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