今日は、江戸時代前期の1654年(承応3)に、第112代の天皇とされる霊元天皇の生まれた日ですが、新暦では7月9日となります。
霊元天皇(れいげんてんのう)は、京都において、後水尾天皇の第19皇子(母は藤原国子)として生まれましたが、名は識仁(さとひと)と言いました。1658年(万治元)に親王宣下され、1662年(寛文2)に9歳で元服、翌年には、第112代とされる天皇として即位しましたが、父が院政を敷きます。
1669年(寛文9)に武家伝奏正親町実豊らの排除を画策、1671年(寛文11)には、側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こすなどしました。1680年(延宝8)に父・後水尾法皇が亡くなり、政務を司ることとなり、近習衆による自己を中心とした朝廷再編を目指したため幕府の干渉を招くこととなります。
1687年(貞享4)に皇太子朝仁親王(東山天皇)に譲位しましたが、仙洞御所に入って院政を敷き、1690年(元禄3)に近衛基煕が関白に就任すると、その権限は制限され再び朝幕協調の時代となりました。1694年(元禄7)に東山天皇の成長を理由として政治の実権を天皇に移すことを宣言したものの、1709年(宝永6)に東山上皇が急逝し、近衛基熈も太政大臣を辞任すると、院政が再開されます。
1713年(正徳3)に剃髪して、法名を素浄とし、1721年(享保6)に初めて修学院離宮御幸が行われ、以後春秋遊幸の地とされました。英明剛毅で学問を好み、和歌や漢詩、書道、絵画を能くし、特に歌道では側近公家を中心に霊元院歌壇を形成、歌集『桃蘂集』、歌論書『一歩抄』、『修学院御幸宸記』などの著作も成します。
しかし、1732年(享保17年8月6日)に京都において、数え年78歳で亡くなり、墓所は京都泉涌寺内の月輪陵とされました。
<代表的な歌>
・「名ある者は やがて雲井に 聞えあげよ 聞きて我が代の 楽にせむ」(霊元院御集)
・「待つほどは つれなくみえし 山のはも 月の麓に とほざかりつつ」
・「夢枕 むすぶ契りの はかなきに みやこへいざと いかでさそはん」
〇霊元天皇の主要な著作
・歌集『桃蘂集』
・歌論書『一歩抄』
・『修学院御幸宸記』
・『霊元院御集』
☆霊元天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1654年(承応3年5月25日) 京都において、後水尾天皇の第19皇子(母は藤原国子)として生まれる
・1658年(万治元年1月) 親王宣下される
・1662年(寛文2年12月) 9歳で元服する
・1663年(寛文3年1月26日) 10歳の時、異母兄後西天皇の譲位をうけて践祚する
・1663年(寛文3年4月27日) 第112代とされる天皇として即位するが、父が院政を敷く
・1669年(寛文9年) 武家伝奏正親町実豊らの排除を画策する
・1671年(寛文11年) 側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こす
・1680年(延宝8年) 父・後水尾法皇が亡くなり、政務を司ることとなる
・1681年(天和元年) 法皇の遺命により儲君に内定していた第一皇子の一宮(後の済深法親王)を強引に出家させ、反対する一宮の外祖父小倉実起を佐渡に流刑にする(小倉事件)
・1683年(天和3年) 意中の皇位継承者であった朝仁親王の立太子礼が行われ長く中断していた皇太子の称号を復活させる
・1687年(貞享4年3月21日) 皇太子朝仁親王(東山天皇)に譲位するが、仙洞御所に入って院政を敷く
・1690年(元禄3年) 近衛基煕が関白に就任すると、その権限は制限され再び朝幕協調の時代となる
・1694年(元禄7年) 東山天皇の成長を理由として政治の実権を天皇に移すことを宣言する
・1709年(宝永6年) 東山上皇が急逝し、近衛基熈も太政大臣を辞任すると、院政が再開される
・1713年(正徳3年) 剃髪して、法名を素浄とする
・1721年(享保6年) 初めて修学院離宮御幸が行われる
・1732年(享保17年8月6日) 京都において、数え年78歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
967年(康保4) | 第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日) | 詳細 |
1336年(建武3) | 湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日) | 詳細 |
1885年(明治18) | 詩人・歌人平野万里の誕生日 | 詳細 |
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