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 今日は、昭和時代前期の1927年(昭和2)に、社会運動家・女性解放運動の先駆者福田英子の亡くなった日です。
 福田英子(ふくだ ひでこ)は、幕末の1865年(慶応元年10月5日)に、備前国野田屋町(現在の岡山県岡山市)で、岡山藩の下級武士だった父・景山確と母・楳子(うめこ)の次女としてとして生まれました。幼時より利発で、母の勧めで漢学を学び、1880年(明治13)に小学校卒業後、母校の助教員に任じられます。
 1882年(明治15)に岡山で開催された演説会で岸田(中村)俊子の演説を聞き、触発されて女権拡張に目覚め、岡山女子懇親会を結成して、自由民権運動に参加、翌年に民権闘士小林樟雄と婚約し、母と共に私塾「蒸紅(じょうこう)学舎」を設立しました。しかし、1884年(明治17)に「集会条例」によって「蒸紅学舎」が閉鎖されて上京し、1885年(明治18)には、大井憲太郎らと朝鮮改革のクーデターを計画、失敗し投獄(大阪事件)されます。
 1889年(明治22)の帝国憲法発布の大赦令で出獄、翌年に大井との間で男子(憲邦)を出生したものの、離別しました。1892年(明治25)にアメリカ帰りの自由主義者・福田友作と結婚、3子を設けましたが貧窮生活が続き、1900年(明治33)に夫と死別、キリスト教に入信します。
 1901年(明治34)に角筈女子工芸学校と日本女子恒産会を設立し、実業教育を通して女性解放のために尽力、1903年(明治36)には、石川三四郎と親交を結び、「平民社」に出入りするようになりました。自伝『妾の半生涯』(1904年)、小説『わらはの思出』(1905年)を出版、1906年(明治39)には、「平民社」の婦人を中心に「社会主義同志婦人会」を設立します。
 1907年(明治40)に雑誌『世界婦人』を発刊、主筆として「婦人解放」の論陣を張り、その第6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書くなどしました。1908年(明治41)に石川三四郎と同棲、翌年に『世界婦人』は弾圧を受け、罰金と発禁に遭い、編集発行の石川三四郎は入獄、1913年(大正2)に石川は英子を置いて一人ベルギーに亡命します。
 同年に『青踏』に「婦人問題の解決」を寄稿、婦選獲得、足尾鉱毒事件の谷中村民支援を続けました。晩年は不遇で呉服行商で生活を支えましたが、1927年(昭和2)5月2日に、東京において63歳で亡くなっています。

〇福田英子の主要な著作

・自伝『妾の半生涯』(1904年) 
・小説『わらはの思出』(1905年)
・『婦人問題の解決』(1913年)

☆福田英子関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1865年(慶応元年10月5日) 備前国野田屋町(現在の岡山県岡山市)で岡山藩の下級武士だった父・景山確と母・楳子(うめこ)の次女としてとして生まれる
・1868年(慶応4年) 4歳の時、明治維新の大変革が遂行され、父確は、武士階級の解体に伴って巡査となる
・1876年(明治9年) 岡山県立研智小学校に入学する
・1880年(明治13年) 小学校卒業後、母校の助教員に任じられる
・1882年(明治15年)5月 岡山で開催された演説会で岸田(中村)俊子の演説を聞く
・1883年(明治16年) 19歳で民権闘士小林樟雄と婚約する
・1883年(明治16年) 母と共に、私塾「蒸紅(じょうこう)学舎」を設立する
・1884年(明治17年) 「集会条例」によって「蒸紅学舎」が閉鎖され、上京する
・1885年(明治18年) 大井憲太郎らと朝鮮改革のクーデターを計画、失敗し大阪事件に連座、投獄される
・1889年(明治22年) 帝国憲法発布の大赦令で出獄する
・1890年(明治23年)3月 大井との間で男子(憲邦)を出生する
・1892年(明治25年) アメリカ帰りの自由主義者・福田友作と結婚する
・1900年(明治33年) 夫と死別、キリスト教に入信する
・1901年(明治34年) 角筈女子工芸学校と日本女子恒産会を設立する
・1903年(明治36年) 石川三四郎と親交を結び、「平民社」に出入りする
・1904年(明治37年) 自伝『妾の半生涯』を出す
・1905年(明治38年) 小説『わらはの思出』を出す
・1906年(明治39年) 平民社の婦人を中心に「社会主義同志婦人会」を設立する
・1907年(明治40年) 雑誌『世界婦人』を発刊する
・1907年(明治40年)3月15日 『世界婦人』6号に「内村先生に上(たてまつ)る書」を書く
・1908年(明治41年) 石川三四郎と同棲する
・1909年(明治42年) 『世界婦人』は弾圧を受け、罰金と発禁に遭い、編集発行の石川三四郎は入獄する
・1913年(大正2年) 石川は英子を置いて一人ベルギーに亡命する
・1913年(大正2年)2月 『青踏』に「婦人問題の解決」を寄稿するが、発禁となる
・1914年(大正3年) この頃から、雑誌発刊と生活費のため、呉服の行商をはじめる
・1914年(大正3年)2月 東京府下滝野川へ転居する
・1914年(大正3年)7月7日 『読売新聞』婦人附録に英子の訪問記がのる
・1927年(昭和2年) 『婦選』に往年の活動の思い出「自由民権時代の婦人の政治運動」を寄稿する
・1927年(昭和2年)4月初旬 風邪がもとで、生来の心臓病を併発する
・1927年(昭和2年)5月2日 東京において63歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

713年(和銅6)元明天皇が諸国に『風土記』の編纂を命じる(新暦5月30日)詳細
756年(天平勝宝8)聖武天皇の命日(新暦6月4日)詳細