今日は、昭和時代後期の1988年(昭和63)に、彫刻家澤田政廣の亡くなった日です。
澤田政廣(さわだ せいこう)は、明治時代後期の1894年(明治27)8月22日に、静岡県熱海町で廻船業「亀屋」を営む父・澤田小兵衛、母・とくの三男として生まれましたが、本名は寅吉と言いました。1913年(大正2)に旧制韮山中学校(現在の韮山高校)を中退し、上京して木彫家高村光雲の高弟、山本瑞雲に師事、1918年(大正7)には、太平洋画会研究所に入り彫刻を学びます。
1921年(大正10)に第3回帝展で「人魚」が初入選、1924年(大正13)の第5回帝展では「銀河の夢」特選となり、東京美術学校彫刻科別科へ入学し、朝倉文夫の指導を受けました。1926年(大正15)に卒業後、第8回帝展の「白日の夢」(1927年)、第9回帝展の「七姫」(1928年)、第10回帝展の「白鳳」(1929年)で3回連続特選となり、無鑑査に推挙されます。
1931年(昭和6)に日本木彫会が結成され、同会会員となり、帝展審査員ともなり、以後官展の審査員を歴任しました。1940年(昭和15)に日本木彫会を脱退し、三木宗策らと正統木彫会を結成、新文展でも活躍します。
太平洋戦争後は、日展に出品し、日展参事、審査員となり、1951年(昭和26)に「五木の精」で芸術選奨文部大臣賞、翌年の「三華」で芸術院賞を受賞しました。1956年(昭和31)から号を「政廣」とし、1962年(昭和37)に日本芸術院会員、1964年(昭和39)に日本陶彫会会長、翌年には日展常務理事となります。
1970年(昭和45)から日本彫塑家連盟理事長を務め、1973年(昭和48)に文化功労者として顕彰され、1979年(昭和54)には、文化勲章を受章しました。木彫による新方向を示して注目され、仏像、古代神話にもとづく神像、人物像を多く制作してきましたが、1988年(昭和63)5月1日に、東京において、急性肺炎により93歳で亡くなっています。
尚、1983年(昭和58)に新潟県糸魚川市に「谷村美術館(澤田政廣作品展示館)」が設立され、1987年(昭和62)には郷里の熱海市に「市立澤田政廣記念館」が開設されました。
〇澤田政廣の主要な作品
・「銀河の夢」(1924年)第5回帝展特選
・「白日夢」(1927年)第8回帝展特選
・「七姫」(1928年)第9回帝展特選
・「白鳳」(1929年)第10回帝展特選
・「五木の精」(1951年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「三華」(1952年)第9回日本芸術院賞受賞
・「連如上人像」(1977年)
・「大聖不動明王」(1987年)
・「出山の釈迦」
・「吉祥天」
☆澤田政廣関係略年表
・1894年(明治27)8月22日 静岡県熱海町で廻船業「亀屋」を営む父・澤田小兵衛、母・とくの三男として生まれる
・1913年(大正2) 19歳、旧制韮山中学校(現在の韮山高校)を中退、木彫家高村光雲の高弟、山本瑞雲に師事する
・1918年(大正7) 24歳、太平洋画会研究所に入る。神田台所町に次兄と共に住む
・1921年(大正10) 27歳、第3回帝展に「人魚」初入選、本名の寅吉で出品する
・1922年(大正11) 28歳、第4回帝展に「沃土」出品する
・1923年(大正12) 29歳、矢の下とみと結婚、本郷区動坂に住む、関東大震災のため帝展は中止となる
・1924年(大正13) 30歳、第5回帝展で「銀河の夢」特選となり、東京美術学校彫刻科別科へ入学し、朝倉文夫の指導を受ける
・1925年(大正14) 31歳、第6回帝展に「太陽に向って」を出品する
・1926年(大正15) 32歳、第7回帝展に「影」を出品、東京美術学校彫刻別科を卒業する
・1927年(昭和2) 33歳、第8回帝展で「白日夢」が特選となる、このころ号を「寅」とする
・1928年(昭和3) 34歳、第9回帝展で「七姫」が特選となり、帝展無鑑査に推挙される
・1929年(昭和4) 35歳、第10回帝展で「白鳳」が特選となる
・1930年(昭和5) 36歳、第11回帝展に「伊呂古の宮」を出品する
・1931年(昭和6) 37歳、第12回帝展に「白夜飛星」を出品、同審査員をつとめる、日本木彫会の結成に参加し同会会員となる
・1932年(昭和7) 38歳、第13回帝展で「華炎」出品、政府買上となる、このころ号を「晴廣」とする
・1933年(昭和8) 39歳、第14回帝展に「春の女神」を出品する
・1934年(昭和9) 40歳、第15回帝展に「白光」を出品、同審査員をつとめる
・1935年(昭和10) 41歳、太平洋美術学校の講師となる
・1936年(昭和11) 42歳、文部省展覧会に「光明仏身」「善魔魚身」を出品する
・1937年(昭和12) 43歳、この年、世田谷区玉川田園調布に居をかまえる
・1938年(昭和13) 44歳、第2回新文展に「護持結身」を出品する
・1939年(昭和14) 45歳、第3回新文展に「聖観世音菩薩」を出品、日本木彫会に「春風」を出品する
・1940年(昭和15) 46歳、日本木彫会を脱退し、「正統木彫家協会」 を結成する
・1941年(昭和16) 47歳、第4回新文展に「神通」を出品する
・1943年(昭和18) 49歳、第6回新文展に「救世太子」を出品する
・1944年(昭和19) 50歳、第7回新文展に「天彦」を出品する
・1946年(昭和21) 52歳、第2回日展に「赤童子」を出品、政府買上となる
・1947年(昭和22) 53歳、第3回日展に「降魔」を出品する
・1948年(昭和23) 54歳、第4回日展に「男習作」を出品する
・1949年(昭和24) 55歳、第5回日展に「釈迦誕生」を出品する
・1950年(昭和25) 56歳、第6回日展に「十一面観音」出品、同審査員をつとめ、日展参事となる。
・1952年(昭和27) 58歳、第7回日展(1951年)出品作「五木之精」にて、芸術選奨文部大臣賞を受ける
・1953年(昭和28) 59歳、第8回日展(1952年)出品作「三華」にて、日本芸術院賞を受ける
・1955年(昭和30) 61歳、三嶋大社の「矢田部盛治像」を制作する
・1956年(昭和31) 62歳、第12回日展に「黄泉のしこめ」を出品。この年から号を「政廣」とする
・1961年(昭和36) 63歳、熱海仏舎利塔日本山妙法寺の「釈迦牟尼世尊像」を制作する
・1962年(昭和37) 68歳、日本芸術院会員となる
・1963年(昭和38) 69歳、平塚市に「海の讃歌」を制作
・1964年(昭和39) 70歳、霊友会弥勒山(東伊豆町大川)に「弥勒菩薩像」を制作、「名取栄一像」(元沼津市長)を制作する
・1965年(昭和40) 71歳、第8回社団法人日展に「稜風」を出品、日展常務理事となる
・1967年(昭和42) 73歳、「勝又春一像」(初代御殿場市長)を制作
・1969年(昭和44) 75歳、改組第1回日展に「人魚」を出品、 高野山金剛峰寺金堂に「金剛王菩薩」を制作する
・1970年(昭和45) 76歳、霊友会本尊「釈迦如来像」を制作(高さ7.58メートル)、第2回日展に「長嶋選手像」を出品する
・1971年(昭和46) 77歳、熱海親水公園の「釜鳴屋平七像」を制作、永平寺持仏、「普賢菩薩」、「文珠菩薩」を制作、第1回新日彫展「釈迦」を出品する
・1973年(昭和48) 79歳、日本橋三越で「彫刻60年の歩み・澤田政廣展」を開催、文化功労者として顕彰される
・1974年(昭和49) 80歳、熱海市名誉市民として顕彰される
・1975年(昭和50) 81歳、澤田家菩提寺、中野区宝仙寺の天井画「天人」と壁画を制作する
・1977年(昭和52) 83歳、東本願寺難波別院に「蓮如上人像」を制作する
・1979年(昭和54) 85歳、身延山久遠寺祖師堂に「日蓮上人像」を制作、文化勲章を受章する
・1981年(昭和56) 87歳、奈良の薬師寺西塔の尊像仏四体を制作する
・1981年(昭和56) 88歳、東京都世田谷区名誉区民として顕彰される
・1983年(昭和58) 89歳、新潟県糸魚川市に「谷村美術館・澤田政廣作品展示館」が開館する
・1987年(昭和62) 93歳、「熱海市立澤田政廣記念館」が開館する、第19回改日展「大聖不動明王」を出品する
・1988年(昭和63)4月 93歳、日本橋三越で「澤田政廣記念館開館記念・澤田政廣展」を開催する
・1988年(昭和63)5月1日 東京において、急性肺炎により93歳で亡くなり、従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追賜される
・1988年(昭和63)5月21日 本葬儀を東京都中野区宝仙寺にて行う
・1988年(昭和63)5月24日 熱海市葬を熱海市観光会館にて行う
・2004年(平成16)11月3日 館名を「熱海市立澤田政廣記念美術館」に改称する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1275年(建治元) | 歌人・公卿藤原為家の命日(新暦5月27日) | 詳細 |
1999年(平成11) | 本四連絡橋・尾道今治ルートの新尾道大橋、多々羅大橋、来島海峡大橋が開通する | 詳細 |
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