
今日は、幕末の1867年(慶応3)に、倒幕派の志士・長州藩士高杉晋作が亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、江戸時代後期の1839年(天保10年8月20日)に、長門国萩城下菊屋横丁(現在の山口県萩市)で長州藩士の父・高杉小忠太、母・みちの長男として生まれましたが、名は春風(はるかぜ)と言いました。1846年(弘化3)の8歳の時、寺子屋・吉松塾に入り、久坂玄瑞と出会い、1852年(嘉永5)に藩校の明倫館に入学、1857年(安政4)には久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、頭角を現します。
1858年(安政5)に藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学びますが、翌年に安政の大獄により、師の松陰が江戸に捕らわれると獄中支援を行いました。同年10月27日に松陰が処刑されると、藩命により萩に帰郷を命じられ、翌年帰郷後は明倫館に勤務し、山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚します。
1861年(文久元)に海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し江戸へ渡り、東北遊学も行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しました。1862年(文久2)に藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、太平天国の乱などを見聞してに2ヶ月後に帰国します。
同年12月に同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行、翌年5月には関門海峡において外国船を砲撃しました。同年6月に廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となりましたが、9月には教法寺事件の責任を問われ総監を罷免され、翌年1月には脱藩して京都へ潜伏します。
同年2月に桂小五郎の説得で、剃髪し東行と号して帰郷しましたが、脱藩の罪で野山獄に投獄され、6月には出所して謹慎処分となりました。1864年(文久4年7月)に長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害、同年8月には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担うことになります。
10月に福岡へ逃れましたが、同年12月に幕府による第一次長州征伐が迫る中、力士隊、遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)、翌年3月には俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握りました。1865年(元治2年9月)に藩命により谷潜蔵と改名、翌年1月に桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結します。
同年5月に伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」を購入、同年6月の第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功しました。1867年(慶応3年3月)には、新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となったものの、同年4月14日に下関において、肺結核のため数え年29歳で亡くなっています。
〇高杉晋作関係略年表(日付は旧暦です)
・1839年(天保10年8月20日) 長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)で長州藩士の父・高杉小忠太、母・みちの長男として生まれる
・1846年(弘化3年) 8歳の時、寺子屋・吉松塾に入り、久坂玄瑞と出会う
・1852年(嘉永5年) 藩校の明倫館に入学する
・1857年(安政4年) 久坂玄瑞の誘いで吉田松陰が主宰していた「松下村塾」に入り、生涯の師・松陰と出会う
・1858年(安政5年7月) 藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所や大橋訥庵の大橋塾などで学ぶ
・1859年(安政6年10月) 安政の大獄により、吉田松陰が処刑される
・1859年(安政6年) 藩命により、萩に帰郷を命じられる
・1860年(万延元年11月) 帰郷後、明倫館に勤務するが、山口町奉行井上平右衛門の次女・まさと結婚する
・1861年(文久元年3月) 海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し江戸へ渡る
・1861年(文久元年8月) 東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友する
・1862年(文久2年5月) 藩命で、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航する
・1862年(文久2年7月) 太平天国の乱を見聞してに帰国する
・1862年(文久2年12月12日) 同志とともに品川御殿山に建設中のイギリス公使館焼き討ちを実行する
・1863年(文久3年5月10日) 関門海峡において外国船を砲撃する
・1863年(文久3年6月) 廻船問屋の白石正一郎邸において身分に因らない画期的な軍隊・奇兵隊を結成し、奇兵隊開闢(初代)総督となる
・1863年(文久3年9月) 教法寺事件の責任を問われ総監を罷免される
・1864年(文久4年1月) 脱藩して京都へ潜伏する
・1864年(文久4年2月) 桂小五郎の説得で、剃髪し東行と号して帰郷するが、脱藩の罪で野山獄に投獄される
・1864年(文久4年6月) 出所して謹慎処分となる
・1864年(文久4年7月) 長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞は自害する
・1864年(文久4年8月) イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台占拠を行い、晋作が和議交渉全権を担う
・1864年(文久4年10月) 福岡へ逃れる
・1864年(文久4年12月) 幕府による第一次長州征伐が迫る中、力士隊、遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて挙兵(功山寺挙兵)する
・1865年(元治2年3月) 俗論派の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る
・1865年(元治2年9月29日) 藩命により谷潜蔵と改名する
・1866年(慶応2年1月) 桂小五郎(後の木戸孝允)らと共に、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩摩藩との軍事同盟である薩長盟約を締結する
・1866年(慶応2年5月) 伊藤俊輔とともに薩摩行きを命じられ、その途次長崎で蒸気船「丙寅丸」を購入する
・1866年(慶応2年6月) 第二次長州征伐(四境戦争)では海軍総督として、幕府艦隊を退け周防大島を奪還に成功する
・1867年(慶応3年3月29日) 新知100石が与えられ、谷家を創設して初代当主となる
・1867年(慶応3年4月14日) 下関において、肺結核のため数え年29歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1526年(大永6) | 駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定する(新暦5月25日) | 詳細 |
| 1602年(慶長7) | 連歌師里村紹巴の命日(新暦6月2日) | 詳細 |
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