今日は、江戸時代中期の1776年(安永5)に、南画家・書家池大雅が亡くなった日ですが、新暦では5月30日となります。
池 大雅(いけの たいが)は、1723年(享保8年5月4日)に、京都銀座役人の下役の父・池野嘉左衛門の子として生まれましたが、幼名は又次郎(のち無名)と言いました。1726年(享保11)の4歳の時、父と死別し、教育熱心な母の手で育てられて、1728年(享保13)の6歳の時、素読を始め、翌年から本格的に唐様の書を学び始めます。
神童と称されるほどでしたが、1737年(元文2年)の15歳の時、扇絵を描いて生計の足しとするようになり、1741年(寛保元)には、終生の友の篆刻家高芙蓉、書家韓天寿に出会いました。日本画の伝統と西洋絵画の表現法をとり入れた独自性と風格に富んだ画風を形成していき、1748年(寛延元)の26歳の時、江戸から東北地方に遊んで得意とする指頭画に評判をとり、帰洛後さらに北陸地方を遊歴、各地を描いた詩情豊かな作品をうみ出していきます。
1750年(寛延3)の28歳の時、紀州藩に文人画の大家祇園南海を訪れ、翌年には、白隠慧鶴に参禅、この頃祇園の歌人百合の娘町と結婚し、真葛ヶ原に草庵を結びました。その後、京都・萬福寺の『五百羅漢図他』(1756年頃)、『柳下童子図』(1760年頃 )、『倣王摩詰漁楽図』(1762年頃)、『蘭亭曲水・龍山勝会図』(1763年)、『十二月離合山水図』(1769年)など代表作を描いていきます。
1771年(明和8)には、与謝蕪村との連作『十便十宜画冊』の内の『十便画冊』(国宝指定)、『洞庭赤壁図巻』(国指定重要文化財)などを描き続けたものの、1776年(安永5年4月13日)に、京都において、数え年54歳で亡くなりました。
〇池大雅の主要な作品
・『前後赤壁図』六曲一双(1749年)文化庁蔵 国指定重要文化財
・『陸奥奇勝図』巻子1巻(1749年)九州国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『五百羅漢図他』(1756年頃)京都・萬福寺蔵 国指定重要文化財
・『柳下童子図』八曲一隻(1760年頃)京都府蔵 国指定重要文化財
・『倣王摩詰漁楽図』掛幅(1762年頃)京都国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『蘭亭曲水・龍山勝会図』六曲一双(1763年)静岡県立美術館蔵 国指定重要文化財
・『山水人物図・老松図』襖絵10面(40代の作)高野山 ・遍照光院蔵 国宝
・『楼閣山水図』六曲一双(40代前半の作)東京国立博物館蔵 国宝
・『白雲紅樹図』掛幅(40代半ばの作)相国寺承天閣美術館蔵 国指定重要文化財
・『十便十宜図のうち十便図』画帖(1771年)川端康成記念会蔵 国宝
・『洞庭赤壁図巻』巻子1巻(1771年)京都国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『西湖春景・銭塘観潮図』六曲一双(40代の作)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『瀟湘勝概図』六曲一隻(40代の作)個人蔵 国指定重要文化財
・『瀟湘八景図(東山清音帖)』扇面16面(最晩年の作)個人蔵 国指重要文化財
☆池大雅関係略年表(日付は旧暦です)
・1723年(享保8年5月4日) 京都銀座役人の下役の父・池野嘉左衛門の子として生まれる
・1726年(享保11年) 4歳の時、父と死別する
・1728年(享保13年) 6歳の時、素読を始める
・1729年(享保14年) 7歳の時、本格的に唐様の書を学び始める
・1737年(元文2年) 15歳の時、扇絵(おうぎえ)を描いて生計の足しとする
・1741年(寛保元年) 19歳の時、終生の友の篆刻家高芙蓉、書家韓天寿に出会う
・1748年(寛延元年) 26歳の時、江戸から東北地方に遊んで得意とする指頭画に評判をとり、帰洛後さらに北陸地方を遊歴する
・1749年(寛延2年) 27歳の時、『陸奥(むつ)奇勝図巻』を描く
・1750年(寛延3年) 28歳の時、紀州藩に文人画の大家祇園南海を訪れる
・1750年(寛延4年) 29歳の時、白隠慧鶴(はくいんえかく)に参禅、この頃祇園の歌人百合の娘町と結婚、真葛ヶ原に草庵を結ぶ
・1756年(宝暦6年)頃 京都・萬福寺の『五百羅漢図他』を描く
・1760年(宝暦10年)頃 『柳下童子図』(八曲一隻)を描く
・1762年(宝暦12年)頃 『倣王摩詰漁楽図』(掛幅)を描く
・1763年(宝暦13年) 『蘭亭曲水・龍山勝会図』(六曲一双)を描く
・1769年(明和6年) 『十二月離合山水図』(六曲一双)を描く
・1771年(明和8年) 与謝蕪村との連作『十便十宜画冊』の内の『十便画冊』を描く
・1771年(明和8年) 『洞庭赤壁図巻』(巻子1巻)を描く
・1776年(安永5年4月13日) 京都において、数え年54歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1818年(文化15) | 商人・測量家伊能忠敬の命日(新暦5月17日) | 詳細 |
1903年(明治36) | 「小学校令」が改正され、教科書検定制から国定教科書制になる | 詳細 |
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