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 今日は、昭和時代中期の1957年(昭和32)に、芸備商船の定期客船「第5北川丸」が瀬戸内海の暗礁で座礁・沈没し、死者・行方不明113名を出した日(第五北川丸沈没事故)です。
 第五北川丸沈没事故(だいごきたがわまるちんぼつじこ)は、4月12日12時40分に芸備商船の旅客船「第五北川丸」が瀬戸内海の三原瀬戸の寅丸礁付近で座礁して沈没した事件でした。瀬戸内海の瀬戸田~尾道航路を定期運航していた芸備商船「第五北川丸」(総トン数39t、旅客定員77名、船員7名、合計定員84名、大正13年6月進水の木造旅客船)が、瀬戸田港から尾道港へ向かって、定員の3倍近い235名を乗せて航行中、佐木島西方にある寅丸礁で座礁・転覆し、すぐに沈没します。
 付近を航行していた運搬船や漁船がただちに救助に当たりましたが、船内に閉じ込められるなどして死者・行方不明113名(乗客112名、乗員1名)、負傷者49名(全員乗客)を出す大惨事となりました。行楽シーズンにおける、観光船の海難事故として社会に大きな反響を呼び、戦後の大規模な海難事故の一つとされています。
 海難審判の結果、高等海難審判庁で1959年(昭和34)3月26日に裁決が言い渡され、「本件沈没は、船長の運航に関する職務上の過失に因って発生したものであるが、本船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。」とされました。尚、三原市の佐木島の高台で、現場海域を見渡せる所に慰霊碑が建てられ、事故日には慰霊祭が行われています。
 以下に、この事故の第二審にあたる高等海難審判庁の1959年(昭和34)3月26日裁決を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「機船第五北川丸沈没事件海難審判裁決」 高等海難審判庁の1959年(昭和34)3月26日裁決

(船舶の要目)
船種船名 機船第五北川丸
総トン数 39トン
最大搭載人員 旅客77人、 船員7人 計84人

 (関係人の明細)
受審人 船長
指定海難関係人 船舶所有者

 (損 害)
第五北川丸 船体沈没後引揚、 船客112名及び甲板員見習1名死亡、 船客49名負傷

主文
 本件沈没は、船長の運航に関する職務上の過失に因って発生したものであるが、本船の運航管理が適当でなかったこともその一因である。

理由
 第五北川丸は、大正13年6月進水の木造旅客船で、昭和31年3月指定海難関係人の所有となり、根拠地を広島県豊田郡豊浜村大浜に置き、大浜・尾道間の定期旅客輸送に従事していたが、翌32年3月観光季節に入り、西日光と通称される瀬戸田町の耕三寺観光の旅客の多いときには、尾道・瀬戸田間1往復の旅客輸送にあたることもあった。
 こうして本船は、同32年4月12日09時35分ごろ、大浜から尾道駅前桟橋に到着したところ、尾道支社の指示により、同10時尾道発瀬戸田行きの便をとることになり、本船の乗組員は通常5名であったが、1人が所要で上陸したため、4名で瀬戸田に向け出港することとなった。
 船長は、本船で瀬戸田航路の旅客輸送に従事するのは、今回が6回目であったが、旅客定員厳守の重要性を深く認識せず、本船の最大搭載人員が旅客77人、船員7人であるのを知りながら、200名程度を載せても危険はないものと考え、乗船客のおさまり具合をみて、乗船させており、当日も定員をはるかに超える約230名の旅客を載せ、10時尾道を発し、11時瀬戸田に入港して旅客を降ろした後、12時20分の便に就航するため待機した。
 当日の同便には、旅客が相当多いとみて発船時刻の約10分前から改札をはじめたが、およそ200名程度と見当をつけていたところ、客室に入りきれない者が上甲板上の通路に立ち並び、ほとんど立すいの余地がない有様で、乗船実員合計235名(小人12名を含む)に達していた。
 かくして、本船は、同日12時22分瀬戸田を発し、尾道に向かい、船長は、途中見習甲板員に操舵をゆずり、自らはその背後に腰掛けて運航の指揮にあたるうち、機関長が昇橋して瀬戸田桟橋で受けとった乗船切符の整理をはじめたので、これを手伝っていたところ、同時34分少し過ぎ、和霊石鼻45メートル頂を右舷正横北89度東450メートルばかりに並航したとき、強い逆潮流を避けるため、佐木島に接航して布袋岩鼻・寅丸礁間を通航するつもりで、徐々に右舵をとらせ、同鼻を正船首よりわずかに右舷に望む北27度東の針路とし、この針路で続航するよう命じ、布袋岩鼻の沖合には岩があると教えた後、引き続いて切符の整理にあたった。
 当時寅丸礁の頂部は水面下約0.4メートルのところまで潜没しており、見習甲板員は、岩があると聞いたものの、それが現実にどの辺にあるのか、どのように見えるのか知る由もなく、船長も気づかぬ間に、本船は、寅丸礁に向首する針路で進行していた。
 同時40分少し前切符の整理が終った船長は、どのあたりかと前方を見ると、予定針路と違っており、至近距離に茶かっ色の水面を認め、自ら舵輪をとって左舵一杯をとり、船体は、右舷に傾斜しながら左舷に回頭しはじめたが、同時40分、20度ばかり回転したとき、軽い衝激を感じ、船尾船底を寅丸礁の西斜面に乗り揚げて擦過した。
 その直後、船体は、急激に右舷傾斜の度を増し、多量の海水を一挙にすくい上げて、船尾から沈没しはじめ、機関室に浸水して船体後部が水面下に没し、船首を北方に向けて沈没した。
 船客は、予期しない海水の急襲を受け、上甲板にいたものは、海中に投げ出され、あるいは、遊歩甲板によじ登ってから水面に浮び、客室内のものは、出入口や窓から必死の脱出をはかったが、沈没が早かったのと多客で混雑したため、脱出できずに船体とともに海中深く沈んだものも相当数に上り、沈没後直ちに、付近にいた漁船、土運船など数隻が救助にあたったにもかかわらず、船客112名と見習甲板員が死亡し、船客49名が負傷した。
 本件沈没は、第五北川丸は、船体構造上乾舷及び初期復原力が比較的少ない船であったが、法定の最大搭載人員の範囲内であれば、通常の航海に安全を保ち得るものであったところ、最大搭載人員の約3倍もの多数の人員を載せて、復原力が著しく減少し、たとい、残存するわずかの復原力と舷しょうによる一時的復原性範囲の増大とで、直ちに転覆することはなかったにせよ、極めて危険な状態となり、このような状態で急転舵したため、旋回に伴う船体傾斜により、ようやく復原力が失われようとするとき、底触による反動や潮流の影響も加わり、急激に傾斜の度を増して浸水沈没したものであって、船長が、本船船長として、旅客定員厳守の重要性を認識せず、船舶安全法の定むる最大搭載人員を著しく超えた旅客を載せて発航し、且つ、暗岩の存在する水域を通航するにあたり、乗船切符を数えなおすことに専念し、前路の看視をなおざりにしたため、暗岩に著しく接近するまでこれに気づかず、急転舵も及ばず、底触擦過するにいたった同人の運航に関する職務上の過失に因って発生したものである。船舶所有者代表取締役社長は、尾道支社に常駐し、また、尾道・瀬戸田航路同盟の理事として、本航路の定期旅客船につき、船舶の旅客定員と密接な関係をもつ配船、乗船券の発売、改札などに関する運営を支配していたのであるが、旅客定員が船舶運航の安全に重要な関係をもつことについて認識を欠き、所属船舶が法定の旅客定員を厳守していない実情にあるのを知りながら、これを容認し、且つ、乗船券の発売や改札などで乗船客の員数を制限する方法がとられず、改札を経た旅客が無制限に船に赴くという、船長1人では定員厳守の維持が困難な情勢のままで、乗船客の処理を船長に一任していたものであって、このような運航管理が適当でなかったことは、定員の約3倍もの旅客を乗船させる結果となり、遂に本件沈没を発生せしめるにいたった一因をなすものである。

☆太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者166名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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