今日は、江戸時代中期の1782年(天明2)に、儒学者・教育者・漢詩人広瀬淡窓の生まれた日ですが、新暦では5月22日となります。
広瀬淡窓(ひろせ たんそう)は、豊後国日田郡豆田魚町(現在の大分県日田市)の九州諸侯用達の商家だった父・博多屋三郎右衛門(桃秋)の長男(母はユイ)としして生まれましたが、名は寅之助と言いました。1783年(天明3)の2歳より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われ、実家に帰ってからは、父母の下で読書、習字を学びます。
少年の頃より聡明で、1789年(寛政元)の8歳の時、軽症の痘瘡にかかったものの、長福寺の法幢に『詩経』の句読を教えられ、翌年には、『書経』、『春秋』、『古文真宝』などを学ぶようになりました。1791年(寛政3)の10歳の時、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受けましたが、翌年には、水庖ソウにかかり6・70日床に就きます。
1794年(寛政6)に元服し、翌年に佐伯へ遊学、1797年(寛政9)には、筑前福岡の亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽父子(徂徠学派)に師事しました。1799年(寛政11)の18歳の時、病に罹って亀井塾を去り、翌年から数年間の療養生活に入ります。
1801年(享和元)の20歳の時から療養に傍ら、門人数人に句読を教えるようになり、翌年には、『孟子』などを講義するようになりました。1805年(文化2)の24歳の時、豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し、「咸宜園(かんぎえん)」が開かれます。
塾生は、1819年(文政2)に37名、翌年には103名と徐々に増えていき、名声はしだいに高まり、全国から集まって、その数は延べ3,000人を超えました。その教育は、「三奪の法」(年齢や学歴、身分に関係なく優劣を入塾後の成績に委ねる)と「月旦評」(日常の学習活動と月例試験での合計点による毎月末の成績評価により昇級等を行う)による徹底した実力主義で、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されています。
門下からは、高野長英、大村益次郎、長三洲など逸材を輩出、『約言』 (1828年成立)、『儒林評』 (1836年成立) 、『析玄』 (1841年) など多くの著作も成しました。漢詩も能くし、詩集『遠思楼詩鈔』を著しましたが、1856年(安政3年11月1日)に、豊後国日田において、数え年75歳で亡くなりっています。
尚、私塾「咸宜園」はその後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、計約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。
〇広瀬淡窓の主要な著作
・『淡窓詩話(しわ)』
・詩集『遠思楼詩鈔(えんしろうししょう)』
・『懐旧楼筆記』
・『約言』(1828年成立)
・『析言』
・『自新録』
・『儒林評』(1836年成立)
・『万善簿(まんぜんぼ)』
・『析玄(せきげん)』(1841年)
〇咸宜園(かんぎえん)とは?
現在の大分県日田市で、江戸時代後期の1805年(文化2)に、儒学者・廣瀬淡窓が長福寺の学寮で開塾したのが始まりです。その後、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、現在地に「咸宜園」が開かれました。全寮制で、身分、学歴を問わずに広く門戸が開放され、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されたのです。明治維新後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。その中には、高野長英(蘭学者・蘭医)、岡研介(蘭医)、大村益次郎(兵部大輔・日本陸軍の創始者)、上野彦馬(日本最初期の写真家)、横田国臣(法律家・検事総長)、清浦奎吾(政治家・内閣総理大臣)などの著名な人々がいます。今でも建物の一部、秋風庵・遠思楼が現存し、江戸時代後期の大規模な私塾の跡として貴重なので、1932年(昭和7)に「咸宜園跡」として国の史跡になっています。また、2015年(平成27)には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されました。2010年(平成22)には、隣接地に「咸宜園教育研究センター」が開館し、咸宜園や廣瀬淡窓、門下生等に関する調査研究と展示を行っていて、見学できます。
☆広瀬淡窓関係略年表(日付は旧暦です)
・1782年(天明2年4月11日) 豊後国日田郡豆田魚町の広瀬家に生まれる。父・三郎右衛門(桃秋)、母ユイの長男。寅之助と名付けられる
・1783年(天明3年) 2歳より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われる
・1787年(天明7年)、6歳の時、魚町の実家に帰り、父母の下で読書、習字を学ぶ
・1789年(寛政元年) 8歳の時、軽症の痘瘡にかかる。長福寺の法幢に『詩経』の句読を学ぶ
・1790年(寛政2年) 9歳の時、『詩経』『書経』『春秋』『古文真宝』を学ぶ。『蒙求』『漢書』『文選』の講義を聴く
・1791年(寛政3年) 10歳の時、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受ける
・1792年(寛政4年) 11歳の時、水庖ソウにかかり6・70日病む
・1794年(寛政6年) 13歳の時、日田代官(西国筋郡代)羽倉権九郎に『孝経』を講義する
・1794年(寛政6年6月) 元服する
・1795年(寛政7年) 14歳の時、佐伯へ遊学する
・1797年(寛政9年) 16歳の時、筑前福岡の亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽父子(徂徠学派)に師事する
・1799年(寛政11年) 18歳の時、病にかかり、亀井塾を去る
・1800年(寛政12年) 19歳の時、療養生活となる(以後数年)
・1801年(享和元年) 20歳の時、門人数人に句読を教える
・1802年(享和2年) 21歳の時、『孟子』を講義。羽倉に四書を講義する
・1804年(文化元年) 23歳の時、亀井塾の学友から教えを乞い、眼科医を目指すも、意欲が薄れる
・1805年(文化2年3月) 24歳の時、豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始、自身も長福寺学寮に転居する
・1805年(文化2年6月) 実家の土蔵に塾を移す
・1805年(文化2年8月) 豆田町大坂屋林左衛門の持ち家を借家して転居し開塾し、「成章舎」と名付ける
・1806年(文化3年) 25歳の時、成章舎で講義開始する
・1807年(文化4年) 26歳の時、塾生の人数が増えたため、豆田裏町(現在は日田市城町の一画)に塾舎を新築し、桂林園と名付ける
・1810年(文化7年) 29歳の時、塾生が30名を超え、合原ナナと結婚する
・1813年(文化10年) 32歳の時、日記を書き始め、『史記』を輪講する
・1817年(文化14年) 36歳の時、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し「咸宜園」と名付け、塾生と一緒に生活するようになる
・1818年(文政元年) 37歳の時、頼山陽が日田に来遊し、数度面会する
・1819年(文政2年) 38歳の時、咸宜園の塾生37名になる
・1820年(文政3年) 39歳の時、月旦評によれば塾生は103名になる
・1824年(文政7年) 43歳の時、風邪のため休講が100日を越し、『自新録』を脱稿する
・1825年(文政8年) 44歳の時、正月に体調を崩す、『敬天説』脱稿、田能村竹田が淡窓を訪ねる
・1828年(文政11年) 47歳の時、『敬天説』を改稿して『約言』を脱稿する
・1830年(文政13年) 49歳の時、『伝家録』を脱稿。塾を末弟・広瀬旭荘に委ねる
・1842年(天保13年) 61歳の時、幕府から永世名字帯刀を許さる
・1848年(嘉永元年) 67歳の時、「万善簿」一万善を達成
・1853年(嘉永6年) 72歳の時、『宜園百家詩』続編編集。『辺防策(論語百言解)』を草す
・1855年(安政2年) 74歳の時、塾を広瀬青邨に委ねる
・1856年(安政3年) 75歳の時、『淡窓小品』完成する
・1856年(安政3年10月) 墓碑の碑文を撰文。書は旭荘が手掛ける
・1856年(安政3年11月1日) 数え年75歳で亡くなり、遺体は自ら墓地に選定していた中城村の広瀬三右衛門別邸跡地(長生園)に埋葬される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1925年(大正14) | 「陸軍現役将校学校配属令」が発せられ、中学校以上の公立学校で軍事教練開始 | 詳細 |
1967年(昭和42) | 「日本近代文学館」が開館する | 詳細 |
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