今日は、江戸時代後期の1827年(文政10)に、医学者・蘭学者大槻玄沢の亡くなった日ですが、新暦では4月25日となります。
大槻玄沢(おおつき げんたく)は、1757年(宝暦7年9月28日)に、一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれましたが、名は茂質(しげかた)と言いました。1765年(明和2)、9歳の時に父が藩医となったので、翌年に一関に転居、1769年(明和6)、13歳の時に同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示します。
1778年(安永7)、22歳の時に江戸への遊学、杉田玄白の私塾・天真楼で医術を修め、前野良沢にオランダ語を学び、1780年(安永9)に良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合いました。1781年(安永10)に蘭学の入門書『蘭学階梯』を起草し、2年後に完成させます。
1784年(天明4)、28歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐことになり、翌年に長崎遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に向かいました。オランダ通詞本木良永のもとに寄宿、オランダ語を学び、1786年(天明6)には江戸に戻ります。
本藩の仙台藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられ、蘭学界での地位を確立して、1789年(寛政元)には、江戸三十間堀に私塾・芝蘭堂をひらいて多くの人材育成に当たりました。1790年(寛政2)に『解体新書』の改訂を命ぜられて着手、1794年(寛政6)にはオランダ商館長の参府一行を定宿の長崎屋に訪れ、質疑応答を交わし、太陽暦の新年を祝して、「阿蘭陀正月」の会を芝蘭堂で催します。
1804年(文化元)に『解体新書』の改訂作業はにいちおう完了し、『重訂解体新書』が出され、漂流民の事歴を聴取した『環海異聞』(1807年)、たばこの研究書『焉録』(1809年)なども刊行されました。1810年(文化7)に幕府天文台蕃書和解御用局員となり、ショメールの百科事典の翻訳『厚生新編』の訳業に参加します。
1825年(文政8)には、ローレンツ・ハイスターの外科書の翻訳『瘍医新書』を刊行したものの、1827年(文政10年3月30日)に江戸において、数え年71歳で亡くなりました。尚、多くの弟子を育てましたが、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と称されています。
〇大槻玄沢の主要な著作
・『蘭学階梯(かいてい)』(1783年)
・『西賓対晤(せいひんたいご)』
・『環海異聞』(1807年)
・『焉録』(1809年)
・翻訳『瘍医(ようい)新書』4冊(1825年)
・翻訳『重訂解体新書』13冊(1826年)
・『六物新志』
☆大槻玄沢関係略年表(日付は旧暦です)
・1757年(宝暦7年9月28日) 一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれる
・1765年(明和2年) 玄沢9歳の時、オランダ流外科の開業医であった父が藩医となる
・1766年(明和3年) 一関に転居する
・1769年(明和6年) 13歳の時、同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示す
・1778年(安永7年) 22歳の時、江戸への遊学、杉田玄白の私塾・天真楼で医術を修め、前野良沢にオランダ語を学ぶ
・1780年(安永9年) 良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合う
・1781年(安永10年) 『蘭学階梯』2巻を起草する
・1783年(天明3年) 『蘭学階梯(かいてい)』2巻が完成する
・1784年(天明4年) 28歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐことになる
・1785年(天明5年10月) 長崎遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に向かう
・1786年(天明6年5月) 江戸に戻る
・1786年(天明6年8月) 本材木町に単身居を構える
・1786年(天明6年) 本藩の仙台藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられる
・1788年(天明8年) 蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立する
・1789年(寛政元年) 江戸三十間堀に私塾・芝蘭堂をひらいて多くの人材育成に当たる
・1790年(寛政2年) 『解体新書』の改訂を命ぜられ、着手する
・1794年(寛政6年) オランダ商館長の参府一行を定宿の長崎屋に訪れ、質疑応答を交わす
・1794年(寛政6年閏11月11日) 太陽暦の新年を祝して、「阿蘭陀(おらんだ)正月」の会を芝蘭堂で催す
・1804年(文化元年) 『解体新書』の改訂作業はにいちおう完了し、『重訂解体新書』が出される
・1807年(文化4年) 『環海異聞』を出す
・1809年(文化6年) 『焉録』を蘭学塾芝蘭堂の私家版として出版する
・1810年(文化7年) 幕府天文台蕃書和解御用局員となる
・1811年(文化8年) 江戸幕府の天文台に出仕して『厚生新編』の訳業に参加する
・1816年(文化13年3月) 工藤平助の医書『救瘟袖暦』に序を書く
・1825年(文政8年) 翻訳書『瘍医新書』4冊が完成し、刊行する
・1827年(文政10年3月30日) 江戸において、数え年71歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
585年(敏達天皇14) | 物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日) | 詳細 |
1985年(昭和60) | 小説家・翻訳家野上弥生子の命日 | 詳細 |
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