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 今日は、江戸時代後期の1837年(天保8)に、元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃した日ですが、新暦では5月1日となります。
 大塩平八郎(おおしお へいはちろう)は、1793年(寛政5年1月22日)に、大坂天満の与力邸で父・大塩敬高の子(母は大西氏)として生まれましたが、名は正高(のち後素)と言いました。幼くして父母を失い、祖父に育てられ、1806年(文化3)頃に東町奉行所に出仕します。
 1820年(文政3)に東町奉行高井山城守実徳に重用され吟味役となり、1824年(文政7)には儒学者の頼山陽と知り合いました。職務に精励し名与力と評され、1827年(文政10)の豊田貢(みつぎ)らのキリシタン類似の宗教の弾圧、1829年(文政12)の不正を働いた西町奉行所筆頭与力弓削新右衛門を処断、1830年(天保元)の破戒僧数十名を遠島の刑に処するなどの働きをします。
 同年に、東町奉行高井山城守実徳の辞職と共に養子格之助に職を譲り、38歳で隠退しました。その後は学問に専念、家塾洗心洞で子弟を教育したり、『古本大学刮目』や『洗心洞劄記』などを著したりします。
 1836年(天保7)の天保の大飢饉の中で、当局にしばしば救済策を上申するものの拒否され、立ち上がることを決意し、翌年2月に蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行いました。近在農民に挙兵の檄文を撒き、同月19日に民衆と共に蜂起(大塩平八郎の乱)しましたが、すぐに鎮圧されて敗走、約40日後の3月27日に、市中潜伏中に幕吏に囲まれ、数え年45歳で自刃しています。

〇大塩平八郎の主要な著作

・『古本大学刮目(かつもく)』8巻(1832年成立)
・『洗心洞劄記(さっき)』上下2巻(1832年成立)
・『儒門空虚聚語(しゅうご)』2巻
・『同附録』1巻
・『増補孝経彙註(いちゅう)』1巻

〇大塩平八郎の乱とは?

 江戸時代後期の1837年(天保8年2月19日)に、大塩平八郎(元大坂東町奉行所与力・陽明学者)が、天保の飢饉で苦しむ民衆の救済と腐敗した江戸幕府の改革を訴え、門弟の武士や農民ら約300人を率いて蜂起した反乱です。
 1828年(文政11)に九州大洪水が起き、断続的に天災による諸国異作が続き、1836年(天保7)には、天保の大飢饉となりました。大坂でも餓死者が続出しましたが、大坂町奉行・跡部山城守良弼(老中・水野忠邦の実弟)は、なんら救済策を講じることなく、逆に大量の米を江戸へ回送(徳川家慶の新将軍就任の儀式用)したため、米を買占めた豪商らは暴利を博します。
 東町奉行跡部山城守良弼に何度か救急策を建議するが容れられず、このような大坂町奉行諸役人と特権豪商らに対し誅伐を加え、隠匿されている米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意しました。2ヶ月前から蔵書1,241部を金668両余りで売り払らって資金調達し、家族を離縁した上で、難民救済と共に、大砲などの火器や爆薬を整えます。
 ひそかに門弟の与力や同心、近辺の富農らとはかり、2,040字に及ぶ幕政批判の檄文を飛ばし、「救民」の旗印を掲げて2月19日に、決起しました。私塾「洗心洞」に集う門弟20数名と共に、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場へと繰り出しましたが、一党は約300人となります。
 豪商宅を襲って金穀を奪ったり、放火したりしましたが、幕府方によって半日で鎮圧されました。しかし、兵火は翌日の夜まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼き、約7万人ほどが焼け出され、焼死者は270人以上にのぼり、「大塩焼け」と呼ばれる大火災となります。
 反乱側は18人が死亡、大塩平八郎は約40日後、隠れ家で見つかり、自害しますが、多くが捕縛され、重罪(死罪33人、遠島4人ほか)に問われました。
 その後、越後柏崎の生田万の乱、備後三原の一揆、摂津能勢の山田屋大助の騒動など、各地で暴動が続くことになります。

☆大塩平八郎関係略年表(日付は旧暦です)

・1793年(寛政5年1月22日) 大坂天満の与力邸で父・大塩敬高の子(母は大西氏)として生まれる
・1806年(文化3年)頃 東町奉行所に出仕する
・1820年(文政3年) 東町奉行高井山城守実徳に重用され吟味役となる
・1824年(文政7年) 頼山陽と知り合う
・1827年(文政10年) 豊田貢(みつぎ)らのキリシタン類似の宗教を弾圧する
・1829年(文政12年) 不正を働いた西町奉行所筆頭与力弓削新右衛門を処断する
・1830年(天保元年) 破戒僧数十名を遠島の刑に処する
・1830年(天保元年) 38歳で、東町奉行高井山城守実徳の辞職と共に養子格之助に職を譲り隠退する
・1832年(天保3年) 『古本大学刮目』8巻が成立する
・1833年(天保4年) 『洗心洞劄記』を家塾板として出版する
・1835年(天保6年) 『洗心洞劄記』を門人による跋文を加えて精義堂より再版する
・1836年(天保7年) 天保の大飢饉の中で、当局に救済策を上申するが拒否される
・1837年(天保8年2月) 蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行う
・1837年(天保8年2月19日) 民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)
・1837年(天保8年3月27日) 市中潜伏中に幕吏に囲まれ、数え年45歳で自刃する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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