今日は、平安時代前期の850年(嘉祥3年3月25日)に、第56代の天皇とされる清和天皇(源氏の祖)が生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
清和天皇(せいわてんのう)は、京都において、文徳天皇の第四皇子(母は藤原良房の娘明子)として生まれましたが、名は惟仁(これひと)と言いました。同年11月に生後8ヶ月で立太子し、858年(天安2)に父・文徳天皇が亡くなると、わずか9歳で第56代とされる天皇として即位しますが、藤原良房が外戚として政治の実権を握ります。
864年(貞観6)に元服しましたが、866年(貞観8)に伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生し、朝廷は動揺しました。同年に藤原高子が25歳で入内し女御となり、藤原良房を臣下として初めて正式に摂政に任命しています。
藤原氏宗に編纂させた律令の補助法令が、869年(貞観10年)に「貞観格」、871年(貞観13)に「貞観式」(現存せず)として完成しました。872年(貞観14)に外戚の藤原良房が亡くなり、876年(貞観18)には、27歳で第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に突然譲位し、太上天皇となり、清和院(平安左京北辺四坊)に移ります。
879年(元慶3年)に出家(法名は素真)して仏門に帰依し、同年10月から畿内巡幸の旅に出て仏寺を巡拝し始めました。翌年3月に丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行ないましたが、11月には粟田山荘円覚寺に移り、881年1月7日(元慶4年12月4日)に同所において、数え年31歳で亡くなっています。
尚、孫の経基に源氏の姓が与えられ、清和源氏が起こりました。
〇清和天皇関係略年表
・850年(嘉祥3年3月25日) 文徳天皇の第四皇子(母は藤原良房の娘明子)として生まれる
・850年(嘉祥3年11月) 生後8ヶ月で立太子する
・858年(天安2年8月27日) 父・文徳天皇が亡くなり、践祚する
・858年(天安2年11月7日) 9歳で第56代とされる天皇として即位する
・858年(天安2年11月) 即位に伴う大嘗祭において藤原高子が五節舞姫をつとめる
・864年(貞観6年) 元服する
・866年(貞観8年閏3月10日) 伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生する
・866年(貞観8年) 藤原高子が25歳で入内し女御となる
・866年(貞観8年8月19日) 藤原良房を臣下として初めて正式に摂政に任命する
・866年(貞観8年9月22日) 朝廷(太政官)は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪する
・869年(貞観10年) 藤原氏宗に編纂させた「貞観格」が完成する
・869年(貞観10年12月16日) 第一皇子として貞明親王(後の陽成天皇)が生まれる
・871年(貞観13年) 藤原氏宗に編纂させた「貞観式」(現存せず)が完成する
・872年(貞観14年9月2日) 外戚の藤原良房が亡くなる
・876年(貞観18年11月) 27歳で第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に突然譲位し、太上天皇となる
・879年(元慶3年5月) 出家(法諱は素真)して仏門に帰依する
・879年(元慶3年10月) 畿内巡幸の旅に出て仏寺を巡拝する
・880年(元慶4年3月) 丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行なう
・881年1月7日(元慶4年12月4日) 粟田の円覚寺において、数え年31歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1919年(大正8) | 建築家・工学博士で、「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の命日 | 詳細 |
1928年(昭和3) | 全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成される | 詳細 |
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