今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の生まれた日です。
北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)は、京都府愛宕郡上賀茂村(現在の京都府京都市北区)で、上賀茂神社の社家だった父・北大路清操、母・登女の次男として生まれましたが、本名は房次郎(ふさじろう)と言いました。誕生前に父は亡く、養子先を転々として幼年時代を送り、1894年(明治27)の10歳の時に梅屋尋常小学校(現在の御所南小、新町小)を卒業後、京都・烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公へ出されます。
1896年(明治29)に丁稚奉公を辞め、養父の木版の手伝いを始め、書を書き、絵筆を買い我流で絵を描き始めました。1904年(明治37)の20歳の時、上京して母に会いに行ったが受け入れられず、そのまま残って書家になることを志し、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞します。
翌年に町書家・岡本可亭の内弟子となって住み込み、1907年(明治40)には福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立しました。1910年(明治43)に実母と共に朝鮮にいきましたが、1912年(明治45)に帰国後、書道教室を開き、翌年から篆刻も習い始めます。
1915年(大正4)に陶芸にも手を染め、翌年に母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗り、魯山人の号を使い始めました。1917年(大正6)に便利堂の中村竹四郎と交友を深め、1919年(大正8)に共同経営で東京・京橋に大雅堂美術店を開き、1921年(大正10)には、会員制食堂「美食倶楽部」を発足します。
1925年(大正14)に東京・永田町に会員制高級料亭「星岡茶寮」を始め、1927年(昭和2)には、荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して本格的な作陶活動を開始しました。しかし、1936年(昭和11)に星岡茶寮の経営者・中村竹四郎から解雇を通知され、「星岡茶寮」を追放されて陶芸に専心し、戦後の1946年(昭和21)には銀座に自作の直売店「火土火土美房」を開店します。
多種の技法に通じ、様々な古陶を再現しつつ自由な作風を示して評価され、1954年(昭和29)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催、1955年(昭和30)には、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退しました。自由奔放な生活を送ってきたものの、1959年(昭和34)12月21日に肝吸虫による肝硬変のため横浜医科大学病院において、76歳で亡くなっています。
〇北大路魯山人関係略年表
・1883年(明治16)3月23日 京都府愛宕郡上賀茂村(現在の京都市北区)で、上賀茂神社の社家だった父・北大路清操、母・登女の次男として生まれる。
・1883年(明治16)9月6日 巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる
・1887年(明治20)頃 4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる
・1889年(明治22)6月22日 木版師の福田武造の養子となり、以後約27年間福田姓を名乗ることとなる
・1894年(明治27) 10歳の時に梅屋尋常小学校(現在の御所南小、新町小)を卒業する
・1894年(明治27)春 京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ出される
・1896年(明治29)1月 奉公を辞める
・1897年(明治30) 14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始める
・1904年(明治37) 20歳の時、上京し母に会いに行ったが受け入れられず、残って書家になることを志す
・1904年(明治37) 日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞する
・1905年(明治38) 町書家・岡本可亭の内弟子となって住み込む
・1907年(明治40) 福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する
・1908年(明治41)2月17日 結婚する
・1910年(明治43)12月 実母と共に朝鮮に旅立つ
・1912年(明治45)夏 帰国し書道教室を開く
・1913年(大正2) 29歳の時から篆刻(てんこく)も習い始める
・1915年(大正4) 陶芸に手を染め始める
・1916年(大正5) 母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗り、魯山人の号を使いはじめる
・1917年(大正6) 便利堂の中村竹四郎と交友を深める
・1919年(大正8) 中村竹四郎と共同経営で東京・京橋に大雅堂美術店を開く
・1921年(大正10) 会員制食堂・「美食倶楽部」を発足する
・1925年(大正14)3月20日 東京・永田町に会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を始める
・1927年(昭和2) 荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して本格的な作陶活動を開始する
・1928年(昭和3) 日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う
・1936年(昭和11) 星岡茶寮の経営者・中村竹四郎から解雇を通知され、「星岡茶寮」を追放されて陶芸に専心する
・1945年(昭和20) 空襲により「星岡茶寮」が焼失する
・1946年(昭和21) 銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店する
・1951年(昭和26) 結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させる
・1954年(昭和29) ロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される
・1955年(昭和30) 織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退する
・1959年(昭和34)12月21日 肝吸虫による肝硬変のため横浜医科大学病院において、76歳で亡くなる
・1998年(平成10) 管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1945年(昭和20) | 小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する | 詳細 |
1950年(昭和25) | 世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー) | 詳細 |
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