今日は、室町時代の1473年(文明5)に、室町時代の武将・守護大名山名宗全(持豊)が亡くなった日ですが、新暦では4月15日となります。
山名宗全(やまな そうぜん)は、1404年(応永11年5月29日)に、守護大名山名時熙の三男(母は山名氏清の娘)として生まれましたが、幼名は小次郎と言いました。1413年(応永20)に10歳で元服、第4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊を名乗りましたが、1420年(応永27)に長兄満時が死去し、後継問題が浮上します。
1421年(応永28)に初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高と共に備後国人の討伐に向かい、翌年に京都へ戻りました。1431年(永享3)に次兄・持熙が足利義教の勘気を受けて廃嫡されると1433年(永享5)に父・時煕から家督を相続し、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となります。
1435年(永享7年)に父・山名時熙が死去すると、1437年(永享9)には持豊の家督相続に不満を持った次兄・持熙が備後で挙兵したものの、これを鎮圧しました。1439年(永享11)に正四位下左衛門佐に任官、翌年に幕府侍所頭人兼山城守護となりましたが、1441年(嘉吉元)には、赤松満祐が第6代将軍足利義教を殺害する嘉吉の変が起こります。
しかし、同年9月に持豊軍は播磨木山に満祐一族を滅ぼし、その功により満祐の旧分国播磨・備前・美作を与えられ、最大の国持ち大名となりました。1444年(文安元)に東播磨の3郡を巡って争いが起き、翌年には赤松満政を討伐し、東播磨を実力で領有します。
1450年(宝徳2)に宗全と号を改め、南禅寺に塔頭真乗院を創建しました。1454年(享徳3)に赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立、翌年には赤松則尚を播磨に討っています。
1466年(文正元年)に、斯波、畠山の内訌が激化すると畠山義就、斯波義廉に味方して、畠山政長、斯波義敏を応援した細川勝元と対立し、さらに将軍家の継嗣問題についても、日野富子の産んだ足利義尚を助けて、将軍義政の弟義視を支持する勝元らに対抗しました。これが、応仁の乱に発展し、西軍の総帥となり、東軍の総帥細川勝元と対峙します。
しかし、1472年(文明4)に家督を政豊に譲り、翌年3月18日に、京都西陣の邸内において、数え年70歳で病死しました。
〇山名宗全(持豊)関係略年表(日付は旧暦です)
・1404年(応永11年5月29日) 室町時代の武将山名時熙の3男(母は山名氏清の娘)として生まれる
・1413年(応永20年1月) 10歳で元服、4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊を名乗る
・1420年(応永27年) 長兄満時が死去し、後継問題が浮上する
・1421年(応永28年12月) 初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高(ひろたか)と共に備後国人の討伐に向かう
・1422年(応永29年) 京都へ戻る
・1428年(応永35年) 父・山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍足利義教が自分の側近であった次兄持熙を後継に立てるように命じる
・1431年(永享3年5月) 兄・持熙が義教の勘気を受けて廃嫡される
・1433年(永享5年8月9日) 父・時煕から家督を相続し、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となる
・1435年(永享7年) 父・山名時熙が死去する
・1437年(永享9年) 持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する
・1439年(永享11年) 正四位下左衛門佐に任官する
・1440年(永享12年) 幕府侍所頭人兼山城守護となる
・1440年(永享12年) 代官犬橋氏を改替するよう高野山側から訴えられる
・1441年(嘉吉元年6月24日) 6代将軍足利義教と共に播磨・備前・美作守護赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出する(嘉吉の変)
・1441年(嘉吉元年7月28日) 侍所頭人を解かれる
・1441年(嘉吉元年9月) 持豊軍は播磨木山に満祐一族を滅ぼし、その功により満祐の旧分国播磨・備前・美作を与えられ、最大の国持ち大名となる
・1442年(嘉吉2年) 出家して宗峯と号する
・1443年(嘉吉3年) 嘉吉の乱で殺された山名熙貴の娘を猶子に迎えて大内教弘に嫁がせる
・1444年(文安元年) 東播磨の明石郡、美嚢郡、加東郡3郡は満祐の従弟の赤松満政が代官になっていたが、幕府に申し出てこの3郡も領有する
・1444年(文安元年10月) 不満を抱いた赤松満政が播磨へ下向する
・1445年(文安2年1月~4月) 赤松満政を討伐し、東播磨を実力で領有する
・1447年(文安4年) 熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結び勝元と共に畠山持国に対抗する
・1450年(宝徳2年) 宗全と号を改める
・1450年(宝徳2年4月) 南禅寺に塔頭真乗院を創建する
・1454年(享徳3年) お家騒動で足元が揺らいだ持国を失脚させることに成功する
・1454年(享徳3年11月2日) 赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立する
・1455年(康正元年5月) 赤松則尚を播磨に討つ
・1458年(長禄2年) 赤松政則が神璽奪回の功により赦免される
・1460年(寛正元年) 教豊と対立して教豊が播磨へ逃れる事件が発生するが、程なく和解する
・1462年(寛正3年) 次男の是豊が備後・安芸守護に任命される
・1464年(寛正5年) 山城守護も兼ねる
・1465年(寛正6年) 男子を出産した足利義政正室の日野富子は、実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する
・1466年(文正元年) 勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる(文正の政変)
・1466年(文正元年12月) 畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる
・1467年(応仁元年)畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる
・1467年(応仁元年5月) 対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ是豊も備後へ侵攻、双方で散発的な衝突が起こる
・1467年(応仁元年5月26日) 上京の戦いをきっかけに応仁の乱が始まる
・1469年(応仁3年) 東軍が西軍本陣に斬り込んできたときには66歳の老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て、敵兵を追い払った
・1469年(文明元年) 義政と義視とが不和になり、義視を迎える
・1470年(文明2年6月) 宗全が東軍に降参するという奇妙な噂も流れ、西軍の結束力に乱れが起こる
・1471年(文明3年) 小倉宮の血を引く西陣南帝を擁立したが、程なく放逐される
・1472年(文明4年) 和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗する
・1472年(文明4年8月) 家督を政豊に譲る
・1473年(文明5年1月) 一族の最重鎮だった教之が死去する
・1473年(文明5年3月18日) 京都西陣の邸内において、数え年70歳で病死する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1945年(昭和20) | 小磯国昭内閣で「決戦教育措置要綱」が閣議決定される | 詳細 |
1965年(昭和40) | 愛知県犬山市に「博物館明治村」が開村する | 詳細 |
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