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 今日は、安土桃山時代の1582年(天正10)に、天目山の戦いに敗れた武田勝頼が妻子と共に自害し、武田氏が滅亡した日ですが、新暦では4月3日となります。
 武田勝頼(たけだ かつより)は、1546年(天文15)に戦国大名の武田信玄の四男(母は側室の諏訪御料人)として生まれましたが、幼名は四郎と言いました。1562年(永禄5)に母の生家である諏訪家の名跡を継ぎ、高遠城主となって、諏訪勝頼を名乗り、翌年には、上野箕輪城(城主は長野業盛)の戦いで初陣を飾ります。
 1565年(永禄8)に信玄の長男(勝頼にとっては異母兄)だった武田義信が信玄と対立して幽閉、廃嫡されて継嗣となり、同年11月に今川義元に対抗するため武田との同盟関係を求めた織田信長の養女(龍勝院)と結婚しました。1566年(永禄9)に正室・竜勝院殿が長男・信勝を生み、1571年(元亀2)には高遠から甲府に移り、対外的にも信玄後継者としての行動を取り始めましたが、正室・竜勝院殿が亡くなっています。
 1572年(元亀3)に、父・信玄と共に西上作戦を開始し、徳川方の遠江二俣城を攻落、同年12月には、三方ヶ原の戦いで父・武田信玄と共に徳川・織田連合軍を破りました。翌1573年(元亀4)に武田信玄は、陣中で持病だった肺結核が悪化して亡くなり、家督を継ぎ、武田勝頼を名乗ることになります。
 同年に北条氏政と攻守同盟を結び、翌年2月に東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落とし、同年6月に遠江国の徳川領に侵入して高天神城を陥落(高天神城の戦い)させ、東遠江をほぼ平定、同年9月には、天竜川を挟んで家康と対陣、その後浜松城に迫り、浜松城下に放火しました。1575年(天正3)に三河国へ侵入し、奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始し、設楽原での織田信長・徳川家康連合軍との合戦(長篠の戦い)で大敗します。
 1577年(天正5)に北条氏政の妹と結婚したものの、翌年に越後の上杉謙信が死亡し、景勝と景虎の間に家督争いが起きると(御館の乱)、景勝側につき、北条氏との関係が悪化し、東駿河や西上野を攻撃されました。1581年(天正9)に織田・徳川連合軍を迎え討つため、新府韮崎城を築いて入城しましたが、家臣団内部でも対立が起こり、翌年には木曾義昌が寝返り、続いて親族の穴山信君も徳川家康に内通、織田信長・徳川家康らの反攻(甲州征伐)を受けます。
 翌年には、新府城に火を放って小山田信茂の岩殿城に向かったものの、裏切られて行く手を阻まれ、天目山の戦いにも敗れて、同年3月11日に妻子と共に数え年37歳で自害し、武田氏が滅亡しました。

〇武田勝頼関係略年表(日付は旧暦です)

・1546年(天文15年) 武田信玄の四男(母は側室の諏訪御料人)として生まれる
・1562年(永禄5年) 母の生家である諏訪家の名跡を継ぎ、高遠城主となって、諏訪勝頼を名乗る
・1563年(永禄6年) 上野箕輪城(城主は長野業盛)の戦いで初陣を飾る
・1564年(永禄7年) 諏訪二宮小野神社に梵鐘を奉納する
・1565年(永禄8年8月) 信玄の長男(勝頼にとっては異母兄)だった武田義信が信玄と対立して幽閉、廃嫡され、継嗣となる
・1565年(永禄8年11月) 今川義元に対抗するため武田との同盟関係を求めた織田信長の養女(龍勝院)と結婚する
・1566年(永禄9年) 正室・竜勝院殿が長男・信勝を生む
・1571年(元亀2年2月) 高遠から甲府に移り、対外的にも信玄後継者としての行動を取り始める
・1571年(元亀2年9月16日) 正室・竜勝院殿が亡くなる
・1572年(元亀3年11月) 徳川方の遠江二俣城を攻落する
・1572年(元亀3年12月) 三方ヶ原の戦いで父・武田信玄と共に徳川家康を破る
・1573年(元亀4年4月12日) 武田信玄は、西上の途中で持病だった肺結核が悪化して亡くなり、勝頼は家督を継ぎ、武田勝頼を名乗る
・1573年(元亀4年) 北条氏政と攻守同盟を結ぶ
・1574年(天正2年2月) 東美濃の織田領に侵攻し、明知城を落とす
・1574年(天正2年6月) 遠江国の徳川領に侵入して高天神城を陥落させ、東遠江をほぼ平定する(高天神城の戦い)
・1574年(天正2年9月) 天竜川を挟んで家康と対陣、その後浜松城に迫り、浜松城下に放火する
・1575年(天正3年5月) 三河国へ侵入し、奥平信昌が立て籠もる長篠城への攻撃を開始する
・1575年(天正3年5月21日) 長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に敗れる
・1575年(天正3年11月) 信長の下命を受けた嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍によって東美濃の岩村城を陥落させられる
・1575年(天正3年12月24日) 徳川家康軍の包囲に耐えかねた遠江の二俣城が開城する
・1577年(天正5年1月) 北条氏政の妹と結婚する
・1578年(天正6年3月) 越後の上杉謙信が死亡し、景勝と景虎の間に家督争いが起きると(御館の乱)、景勝側につき、北条氏との関係が悪化する
・1579年(天正7年7月) 東上野に出兵し、敵対関係となった北条氏邦と対陣する
・1579年(天正7年9月13日) 駿河黄瀬川において北条氏政と対陣する
・1580年(天正8年9月) 東上野へ出陣し、利根川を越えると新田金山城を攻め、膳城を落とす
・1581年(天正9年) 織田・徳川連合軍を迎え討つため、新府韮崎城を築いて入城する
・1582年(天正10年2月) 信玄の娘婿だったはずの木曽義昌が織田側へ寝返る
・1582年(天正10年2月) 伊那谷に織田軍の攻撃を受ける
・1582年(天正10年3月2日) 高遠城が陥落する
・1582年(天正10年3月3日) 新府城に火を放って小山田信茂の岩殿城に向かう
・1582年(天正10年3月9日) 裏切った小山田信茂に鉄砲を撃ちかけられ行く手をはばまれる
・1582年(天正10年3月11日) 天目山の戦いに敗れ、妻子と共に数え年37歳で自害し、武田家が滅亡する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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