今日は、昭和時代前期の1934年(昭和9)に、経済学者・社会運動家野呂栄太郎の亡くなった日です。
野呂栄太郎(のろ えいたろう)は、明治時代後期の1900年(明治33)4月30日に、北海道夕張郡長沼村(現在の長沼町)で、農場の管理人だった父・野呂市太郎、母・波留の長男として生まれました。1907年(明治40)に小学校へ入学しましたが、運動会でのけががもとで破傷風に罹り、2年生の時に右足を膝下から切断しています。
1920年(大正9)に私立北海中学校を優秀な成績で卒業、上京して慶応義塾大学経済学部予科へ入学しましたが、肺結核にかかり、一時療養を余儀なくされました。その後、野坂参三の指導のもとにマルクス主義を研究、1922年(大正11)に慶応の学生による三田社会問題研究会の結成に参加し、翌年には日本学生連合会の東京連合会委員長となります。
1925年(大正14)に小樽軍事教練事件に関わって検挙され、翌年にも学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して、10ヶ月の禁固刑を受けましたが、病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務しました。日本と世界の政治・経済の現状分析および日本資本主義発達史研究に従事し、猪俣津南雄などの日本資本主義論に厳しい批判を行いますが、1929年(昭和4)の四・一六事件で1ヶ月ほど拘束されます。
同年にプロレタリア科学研究所創立にも参加、翌年には日本共産党に入党し、『日本資本主義発達史』を刊行しました。1932年(昭和7)にマルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり、「講座派」を指導したものの、産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれています。
地下活動に入り、1933年(昭和8)以後、共産党中央委員会責任者として活動していましたが、スパイの手引きで検挙され、1934年(昭和9年)2月19日に品川警察署での拷問により病状が悪化して、数え年33歳の若さで亡くなりました。
以下に、野呂栄太郎が書いた『日本資本主義発達史講座』趣意書を掲載しておきますのでご参照下さい。
〇野呂栄太郎の主要な著作
・『日本資本主義発達史』(1931年刊)
・編集『日本資本主義発達史講座』全7巻(1931年)
〇野呂栄太郎関係略年表
・1900年(明治33)4月30日 北海道夕張郡長沼村(現在の長沼町)で、農場の管理人だった父・野呂市太郎、母・波留の長男として生まれる
・1907年(明治40)4月 小学校へ入学する
・1914年(大正3)3月 小学校を卒業する
・1915年(大正4)4月 私立北海中学校へ入学する
・1920年(大正9)3月 私立北海中学校を優秀な成績で卒業する
・1920年(大正9)4月 慶応義塾大学経済学部予科へ入学する
・1922年(大正11)11月 三田社会問題研究会の結成に参加する
・1923年(大正12)1月 日本学生連合会の東京連合会委員長となる
・1925年(大正14)10月 小樽軍事教練事件で検挙される
・1926年(大正15)4月 学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件に連座して懲役10ヶ月の判決を受ける
・1926年(大正15)4月 慶応義塾大学予科理財科を卒業する
・1926年(大正15)8月 病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務する
・1929年(昭和4)4月16日 四・一六事件で拘束される
・1929年(昭和4) プロレタリア科学研究所創立に参加する
・1930年(昭和5)1月 日本共産党に入党する
・1930年(昭和5)2月20日 『日本資本主義発達史』が鉄塔書院より刊行される
・1932年(昭和7)5月 マルクス主義を体系的に纏めた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の編集人として発刊に携わり始める
・1933年(昭和8)5月9日 産業労働調査所が弾圧され事実上の閉鎖に追い込まれる
・1933年(昭和8)8月1日 国際反戦デーに、ストライキ及びデモ活動を呼びかけるも失敗する
・1933年(昭和8)8月23日 産業労働調査所が閉鎖される
・1933年(昭和8)11月28日 スパイの手引きで検挙される
・1934年(昭和9年)2月19日 品川警察署での拷問により病状が悪化し、数え年33歳の若さで亡くなる
☆『日本資本主義発達史講座』趣意書 野呂栄太郎著
世界経済恐慌の発展は全資本主義体制の、従ってまた日本資本主義制度の根底を揺り動かしている。資本主義の一般的危機の先鋭化、その上に進行しつつある恐慌の破局的深刻化、国際的諸対立の脅威的緊張、そして階級対立闘争の不可両立的激化――すべてこれらの、もはや蔽おおわんとして蔽おおいがたき事態の急激なる悪化は、支配階級及びその代弁者どもをして今さらのように国難来を叫ばしむるにいたった。曰く、経済国難! 曰く、思想国難! 曰く、建国以来未曽有の国難!
急迫せる情勢に転倒せる帝国主義者の脳裏には、恐らく戦争とファシズム以外の考えは浮かび得ないであろう。しかしながら、経済的発展の行詰まり、政治的支配の動揺、社会情勢の不安等々の解決は、かかる一連の事態の変化を必然にし、不可避にしたところの根本的矛盾を究きわめることなしには、問題解決の糸口をつかむことこそ不可能であろう。日本資本主義成立の歴史を顧み、その矛盾に満ちた発展の諸特質を究めることは、それゆえに、日本資本主義が当面せる諸問題の根本的解決の道を見出すべき鍵である。本講座はこの鍵を提供せんとするものである。
かかる緊切なる当面の要求に応じて生まれた本講座は、歴史的事実の単なる羅列られつ、説明をもって能事おわれりとするものではない。いわんや、何らかの成心をもってあえて事実を虚構するがごときは、本講座の執筆者とはまったく無縁である。われわれの期するところは歴史の解釈ではなくしてその変革である。歴史を変革するとは、過去の歴史的事実を改変することではなくして、未来の歴史を創造することである。だが、われわれはそれを勝手に創ることはできない。すでに与えられたる一定の諸条件に基づいてのみ、歴史の変革も創造も可能にせられ、問題の真の解決は期待し得るであろう。
特に問題解決のかかる諸条件を明らかにせんがために、日本資本主義発達の諸条件、その本質的諸特徴、その基本的諸矛盾を全面的に分析し、根本的に究明することは、もとより一人の能よくするところでない。といってもちろん、多数のいわゆる歴史家たちの研究に任せ得る問題でもない。本講座は、今日この問題の真の解決のために協力し得るほとんど大部分の研究家の参加を得た。それは文字通り、約三十名の執筆者の共同労作である。各執筆者の研究は、それぞれの範囲内では各自の創意を十二分に発揮しながらも、あくまで全体の緊密なる構成部分を成している。
本講座は、今日世に問い得る限りにおいて、日本資本主義の最も包括的な科学的研究であり、その本質的矛盾の最も根本的な分析である。しかも、われわれが当面せる諸問題の根本的解決のためには、本講座はわずかに解決の鍵を提供するにすぎない。われわれは、日本資本主義の危機からの革命的活路を身をもって切り開かんとする多数読者の積極的努力によって、始めてさらに完成せらるべきことを期待する。社会的矛盾の中に真理を求め資本主義社会の発展の法則を究明せんとする一般諸君の検討を待望しつつ、あえて本講座を世に問わんとする所以である。
――一九三二年六月――
「野呂栄太郎全集 下」(新日本出版社刊)より
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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