今日は、足尾鉱毒事件に関わって、被害民二千余名が請願のため上京する途中、二百余名の警官隊・憲兵と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕された日です。
川俣事件(かわまたじけん)は、1900年(明治33)2月13日、群馬県邑楽郡渡瀬村(現在の館林市下早川田町)の雲龍寺に集結した鉱毒被害民二千余名が、未明に出発して請願のため上京する途中、利根川を渡ろうとして群馬県邑楽郡佐貫村川俣(現在の明和町)で、待ち構えていた二百余名の警官隊・憲兵と衝突した事件でした。これにより、多くが負傷、農民67名が逮捕され、その内、51名が兇徒聚集罪などで起訴されます。
しかし、1902年(明治35)に仙台控訴審で起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形で決着しました。
その後、1999年(平成11)に、歴史的事件である「川俣事件」の風化を防ごうと、当時の事件の発生場所を「川俣事件衝突の地」として明和町指定史跡に指定し、碑が建てられます。また、事件発生100年後の2000年(平成12)に、事件発生現場に、川俣事件記念碑が建立されました。
〇足尾鉱毒事件とは?
明治時代前期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山を原因とする公害事件です。銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1885年(明治18)には渡良瀬川における魚類の大量死が始まりました。
1890年(明治23)7月1日の渡良瀬川で大洪水では、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。この頃より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起し、1896年(明治29)には、有志と共に雲龍寺に栃木群馬両県鉱毒事務所が設けられました。
1900年(明治33)2月、鉱毒被害民が集結し、請願のため上京する途中、警官隊と衝突した川俣事件がおこり、農民67名が逮捕されましたが、この事件の2日後と4日後、正造は国会で事件に関する質問を行っています。1901年(明治34)に正造は衆議院議員を辞職し、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴も試みました。
1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立て、紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになります。しかし、この村の将来に危機を感じた正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住み、村民と共に反対運動に取り組みました。
1907年(明治40)に政府は「土地収用法」の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなります。その後も、正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)に正造は71歳で没し、運動は途切れることになりました。
以後も足尾銅山は1973年(昭和48)の閉山まで、精錬所は1980年代まで稼働し続けます。それからも、2011年(平成23)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、現在でも影響が残っています。
〇足尾銅山とは?
この銅山は、室町時代に発見されたと伝えられていますが、江戸時代に幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。銅山は大いに繁栄し、江戸時代のピーク時には、年間1,200トンもの銅を産出していたとのことです。
その後、採掘量が減少し、幕末から明治時代初期にかけては、ほぼ閉山状態となっていました。しかし、1877年(明治10)に古河市兵衛が足尾銅山の経営に着手し、数年後に有望鉱脈が発見され、生産量が増大します。
1905年(明治38)に古河鉱業の経営となり、急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の約40%の生産を上げるまでになりました。ところが、この鉱山開発と製錬事業の発展のために、周辺の山地から坑木・燃料用として、樹木が大量伐採され、製錬工場から排出される大気汚染による環境汚染が広がることになります。
禿山となった山地を水源とする渡良瀬川は、度々洪水を起こし、製錬による有害廃棄物を流出し、下流域の平地に流れ込み、水質・土壌汚染をもたらし、鉱毒問題を引き起こしました。1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起をして、鉱毒事件の闘いの先頭に立ったことは有名です。
1973年(昭和48)に閉山しましたが、今でも銅山跡周辺に禿山が目立っています。また、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から「近代化産業遺産」にも認定されました。
尚、現在は足尾銅山観光などの観光地となっています。
〇田中正造とは?
明治時代に活躍した政治家で、1841年(天保12)に、小中村(現在の栃木県佐野市)名主の家に生まれました。 その後、父の跡を継いで小中村名主となりましたが、領主に村民と共に政治的要求を突き付けたことが元になって、投獄されています。
1870年(明治3)、江刺県花輪支庁(現在の秋田県鹿角市)の官吏となったものの、翌年、上司殺害の容疑者として逮捕、投獄されました。冤罪に終わりましたが、その後小中村に戻り、再び政治に関わるようになります。
1880年(明治13)に、栃木県議会議員になり、1890年(明治23)、第1回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選(以後6回当選)しました。この年に渡良瀬川で大洪水があり、上流の足尾銅山から流出した鉱毒によって、稲が立ち枯れる現象が起きて、流域各地で騒ぎとなります。
そして、この足尾銅山鉱毒事件に深くかかわっていくことになりました。1901年(明治34)には、明治天皇に足尾銅山鉱毒事件について直訴を行なおうとしています。
1902年(明治35)、時の政府は、鉱毒を沈殿させるという名目で、渡良瀬川下流に遊水池を作る計画を立てました。紆余曲折を経て、谷中村に遊水地がつくられることになり、この村の将来に危機を感じた田中正造は、1904年(明治37)から実質的に谷中村に移り住みます。
そして、村民と共に反対運動に取り組みましたが、1907年(明治40)、政府は土地収用法の適用を発表し、村に残れば犯罪者となり逮捕するという脅しをかけ、多くの村民が村外に出ることとなりました。その後も、田中正造を含む一部村民が残って、抵抗を続けたものの、1913年(大正2)9月4日に71歳で没しています。
尚、「佐野市郷土博物館」には、田中正造展示室があり、関係資料約1万点を収蔵してきました。
〇「川俣事件記念碑」碑文 2000年(平成12)建立
川俣事件は足尾鉱毒問題の中で最も大きな事件である
明治の中頃 渡良瀬川の上流足尾銅山から流出する鉱毒によって中下流域は農作物や魚類に甚大な被害を受けた 生活を脅かされた農民たちは 銅山の鉱業停止や補償を求めて再度にわたり大挙上京請願(押出し)を決行したがその成果は少なかった
一八九八(明治三十一)年九月大暴風雨による洪水は銅山の沈澱池が決壊し渡良瀬川流域の田畑は深刻な被害をうけた 耐えかねた被害民は足尾銅山の鉱業停止を求めて第三回東京押出しを決行した その数一万余人 薄着姿の老人も見られたという
時の栃木県選出代議士田中正造は この報に接し 急ぎ上京途中の一行に会い 多くの犠牲者を出さないために総代を残して帰村するよう説得した その演説は 被害民を動かし 警備の憲兵・警察官にも深い感銘を与えたという
この後田中正造は足尾鉱毒問題解決に献身し 議会に於いても
再三再四政府を追求したが 政府の答弁は終始曖昧に終わった
一九〇〇(明治三十三)年二月十三日足尾銅山の鉱業に関わる諸問題を解決するために 被害民たちは決死の覚悟で第四回目の東京押出しを決行した
前夜から邑楽郡渡瀬村(現館林市)の雲龍寺に集結した二千五百余名の被害民は翌朝九時頃大挙上京請願のために同寺を出発 途中警察官と小競り合いを演じながら正午頃佐貫村大佐貫(現明和町)に到着 ここで馬舟各一隻を積んだ二台の大八車を先頭に利根川に向かったが その手前同村川俣地内の上宿橋(現邑楽用水架橋)にさしかかったところで待ちうけた三百余名の警官隊に阻まれ 多くの犠牲者を出して四散した これが川俣事件である
この事件で負傷し 現場及び付近で捕縛された被害民十五名は 近くの真如院(お寺)に連行された(翌日以降の捜査で総数百余名が逮捕され うち五十一名が兇徒聚衆罪等で起訴された)
この事態を重くみた佐貫村の塩谷村長をはじめ郡・村会議員区長らの有志は 村医を呼び負傷者に応急手当を施し 炊き出しを行いにぎり飯を差し入れるなど被害民の救恤につとめた この手厚い扱いに被害民関係者は深く感銘し
これを後世に伝えている
この後 政府の措置に失望した田中正造は 衆議院議員を辞職し天皇に鉱毒問題を直訴 以後谷中村遊水池化反対闘争へと戦いを続ける
この地で川俣事件が発生してから百年が経過し いま足尾鉱毒事件は公害の原点として新たな脚光を浴び 環境問題にも強く訴え続けている
この史実を永遠に風化させないために ここに川俣事件発生百年にあたり 記念碑を建立し 後世に伝えるものである
「明和町」ボムページより
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
797年(延暦16) | 六国史二番目の『続日本紀』が完成・奏上される(新暦3月15日) | 詳細 |
2006年(平成18) | 財団法人日本城郭協会が「日本100名城」を発表する | 詳細 |
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