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 今日は、昭和時代中期の1948年(昭和23)に、関西汽船の「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出した日です。
 女王丸沈没事故(じょおうまるちんぼつじこ)は、瀬戸内海の阪神~多度津航路を運行していた関西汽船「女王丸」(401総トン、長さ48.9m、速力10ノット、乗客定員366名、明治37年4月に進水した鋼船)が、大阪から多度津(香川県)に向かって、乗客269名と乗組員35名の計304名を乗せて航行中、この日の午前3時頃に、岡山県牛窓沖合で機雷に触れて爆発を生じ、僅か20~30分で沈没して引き起こされました。懸命の救助活動にもかかわらず、死者・行方不明188名を出す大惨事となり、戦後の大規模な海難事故の一つとされています。
 機雷は、水中に設置され、物理的刺激や磁気などに反応して爆発する水中兵器で、太平洋戦争末期にアメリカ軍が、日本近海の船舶交通を封鎖するために、爆撃機B29等により大量に投下(1万発以上)したものでした。1945年(昭和20)に「ポツダム宣言」受諾による敗戦後、同年9月2日に降伏文書署名に至り、日本を占領した連合国軍は、その日の内に連合軍最高司令官指令(SCAPIN)の第1号を発令、その中で日本政府は、「すべての機雷と機雷原および航行の障害物を除去すること」をはじめ,船舶航行の安全確保にかかわるさまざまな義務を負うことになります。
 機雷除去作業は、東京湾、呉、佐世保、長崎、神戸などの重要港から順次進められたものの、まだ瀬戸内海航路には危険が潜んでいる状況で、前年7月には「第二日航丸」(500トン)が、続いて9月には「馬山丸」(8700トン)、が触雷していました。そんな状況下で起きた、戦後の悲惨な事故の一つとされています。
 尚、沈没現場を見下ろす高台に本蓮寺があり、この事故の際に遺体が安置された場所で、現在境内には事故で犠牲になった方々の為の慰霊碑が立ち、事故日には法要も営まれて来ました。

〇太平洋戦争後(1946年以降)日本近海での主な海難事故(死者・行方不明100名以上)

・1948年(昭和23)1月28日 - 関西汽船「女王丸」が瀬戸内海で機雷に触れ沈没、死者・行方不明者188名を出す(女王丸沈没事故)
・1954年(昭和29)9月26日 - 青函連絡船「洞爺丸」が函館市沖で洞爺丸台風の暴風により転覆・沈没し乗員乗客1,155名が死亡する(洞爺丸事故)
・1955年(昭和30)5月11日 - 宇高連絡船「紫雲丸」と「第3宇高丸」が濃霧の中で衝突し「紫雲丸」が沈没して死者166名、負傷者122名を出す(紫雲丸事故)
・1957年(昭和32)4月12日 - 瀬戸内海の定期客船「第5北川丸」が暗礁で座礁・転覆し、死者・行方不明113名を出す(第五北川丸沈没事故)
・1958年(昭和33)1月26日 - 紀阿連絡航路の旅客船「南海丸」が紀伊水道沼島沖で沈没し乗員乗客167名全員が死亡・行方不明となる(南海丸遭難事故)
・1963年(昭和38)8月17日 - 那覇から久米島へ向かう旅客船「みどり丸」が横波に襲われ転覆し、死者・行方不明者112名を出す(みどり丸沈没事故)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

712年(和銅5)太安万侶が編纂した『古事記』が完成し、元明天皇に献上される(新暦3月9日)詳細
1582年(天正10)天正遣欧使節がローマに向かって長崎港を出港する(新暦2月20日)詳細