今日は、江戸時代後期の天保11年に、文人画家谷文晁の亡くなった日ですが、新暦では1841年1月6日となります。
谷文晁(たに ぶんちょう)は、江戸時代中期の1763年(宝暦13年9月9日)に、江戸下谷根岸(現在の東京都台東区)で、田安家の家臣で漢詩人としても知られた父・谷麓谷の長男として生まれましたが、本名は正安と言いました。12歳の頃から狩野派の加藤文麗に絵を学びましたが、18歳の頃には、南蘋派の渡辺玄対に師事しています。
20歳の時に、文麗が亡くなったので北山寒巌について北宋画を修め、1788年(天明8)に田安家に出仕して五人扶持となり、同年長崎に遊学して清人張秋谷に文人画を学ぶなど幅広い画風を摂取しました。1792年(寛政4)には、田安家の養子となった松平定信に認められてその近習となり、定信の伊豆・相模の海岸防備の視察に随行、西洋画の陰影法、遠近法を用いた「公余探勝図巻」 (1793年) を描きます。
また、定信の命によって古文化財を調査し、図録集『集古十種』 (1800年) や『古画類聚』の編纂に従事、古書画や古宝物の挿絵を描きました。30歳になるまでに日本全国を旅し、その途次に各地の山々を写生し、『日本名山図絵』として刊行しています。
1812年(文化9)に定信が隠居すると長年の功績により、格式は奥詰のまま恩給を受け、写山楼にて剃髪して画業に専念しました。独自の画風を創出して江戸文人画壇の重鎮となり、門下に渡辺崋山、立原杏所、高久靄厓らの俊英を輩出します。
75歳の時に法眼位に叙され、文阿弥と号したものの、1841年1月6日(天保11年12月14日)に、江戸において、78歳で亡くなりました。
〇谷文晁の主要な作品
・「公余探勝図巻」(1793年)東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・「青山園荘図稿」(1797年)出光美術館蔵 国指定重要文化財
・「戸山山荘図稿」(1798年)出光美術館蔵 国指定重要文化財
・「木村蒹葭堂像」(1802年)大阪府教育委員会蔵(大阪市立美術館保管) 国指定重要文化財
・「八仙人図」(1802年) 静嘉堂文庫美術館蔵
・「彦山真景図」(1815年) 東京国立博物館蔵
・「帰去来図」
・「松島図」(1826年)
〇谷文晁の主要な著作
・『文晁画談』
・『本朝画纂(ほんちょうがさん)』
・『日本名山図会』
・『歴代名公画譜』模写
・『画学大全』
・『写山楼画本』
・『近世名家肖像図巻』監修
・『漂客奇賞図』翻刻
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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