今日は、幕末の1858年(安政5)に、「憲政の神様」と言われた政治家尾崎行雄の生まれた日ですが、新暦では12月24日となります。
尾崎行雄(おざき ゆきお)は、相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県相模原市緑区又野)で、漢方医の父・尾崎行正、母・貞子の子として生まれましたが、幼名は彦太郎と言いました。江戸の平田塾、高崎の英学校で学んだ後、1872年(明治5)に度会県山田(現在の三重県宇治山田)に居を移し、宮崎文庫英学校に入学します。
1874年(明治7)に、弟と共に上京し、福沢諭吉の慶應義塾童児局に入学しましたが、翌々年に中退しました。1879年(明治12)に諭吉の推薦で「新潟新聞」の主筆となり、1881年(明治14)には、大隈重信の招きで統計院権少書記官に就任したものの2ヶ月あまりで、明治14年政変によって下野することになります。
翌年に「報知新聞」の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加、1883年(明治16)には東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出されました。翌年に「報知新聞」特派員として中国に渡り、1887年(明治20)には、後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進しましたが、「保安条例」により東京からの退去処分を受けます。
1890年(明治23)に、第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選(以後25回連続当選)、1896年(明治29)には第2次松方内閣で外務省勅任参事官となりました。1898年(明治31)に憲政党総務となり、第1次大隈内閣の文部大臣として入閣したものの、藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で、同年に辞職します。
1900年(明治33)に伊藤博文の立憲政友会結成に創立委員として参加、最高幹部の一人となりましたが、1903年(明治36)に伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して立憲政友会を脱党、その年に、東京市長に就任し、1912年(明治45)まで務め、同年の憲政擁護運動では、国民党の犬養毅と運動を指導し、「憲政の神様」と言われました。1914年(大正3)に第二次大隈内閣の法相に就任、1916年(大正5)には憲政会の創立に参画、筆頭総務となったものの、1921年(大正10)の普選即行論で、憲政会を除名され、軍備縮小論を主張して遊説します。
1928年(昭和3)に田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出、1931年(昭和6)には「治安維持法」の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にしました。1941年(昭和16)に大政翼賛運動を批判し、鳩山一郎らと同交会を結成、翌年の翼賛選挙では推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選したものの、志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され一審で有罪判決(懲役8ヶ月執行猶予2年)を受けましたが、1944年(昭和19)の大審院では無罪となります。
太平洋戦争後は、平和運動家として世界連邦制の確立のため努力したものの、1953年(昭和28)の第26回衆議院議員総選挙で落選して政界から引退、衆議院から名誉議員の称号を贈られました。その翌年10月6日に、東京の慶應病院において、95歳で亡くなっています。
〇尾崎関係略年表(明治5年以前の日付はは旧暦です)
・1858年(安政5年11月20日) 相模国津久井郡又野村で、漢方医の父・尾崎行正、母・貞子の子として生まれる
・1868年(明治元) 番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学ぶ
・1871年(明治4) 高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ
・1872年(明治5) 度会県山田(現在の三重県宇治山田)に居を移し、宮崎文庫英学校に入学す
・1874年(明治7) 弟と共に上京し、慶應義塾童児局に入学する
・1875年(明治8) クリスマスに聖公会のカナダ人宣教師で英語教師のA・C・ショーよりキリスト教の洗礼を受ける
・1876年(明治9) 工学寮(のちの工部大学校、現在の東京大学工学部)に再入学する一年足らずで退学する
・1879年(明治12) 福澤諭吉の推薦で「新潟新聞」の主筆となる
・1881年(明治14) 大隈重信の招きで統計院権少書記官に就任するも2ヶ月あまりで、明治14年政変によって下野する
・1882年(明治15) 「報知新聞」の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加する
・1883年(明治16) 東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出される
・1884年(明治17) 「報知新聞」特派員として中国に渡る
・1887年(明治20) 後藤象二郎のもとで大同団結運動を推進する
・1887年(明治20) 「保安条例」により東京からの退去処分を受ける
・1890年(明治23) 第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬し当選する
・1896年(明治29) 第2次松方内閣で外務省勅任参事官となる
・1898年(明治31) 憲政党総務となり、第1次大隈内閣の文部大臣として入閣する
・1898年(明治31) 藩閥政治を攻撃したいわゆる「共和演説」問題で文部大臣を辞職する
・1900年(明治33) 伊藤博文の立憲政友会結成には創立委員として参加、最高幹部の一人となる
・1903年(明治36) 伊藤の桂太郎内閣との妥協に反対して立憲政友会を脱党する
・1903年(明治36) 東京市長に就任する
・1908年(明治41) 猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させる
・1909年(明治42) 立憲政友会に復党する
・1911年(明治44) 外債により私営電車を買収し、東京市電の経営を始める
・1912年(明治45) サクラの苗木3,000本をワシントン D.C.に贈呈する
・1912年(明治45) 東京市長を辞める
・1912年(大正元) 憲政擁護運動では、国民党の犬養毅と運動を指導し、立憲政友会を代表して質問を行う
・1914年(大正3) 第二次大隈内閣の法相に就任する
・1916年(大正5) 憲政会の創立に参画、筆頭総務となる
・1921年(大正10) 普選即行論で、憲政会を除名され、軍備縮小論を主張して遊説する
・1928年(昭和3) 田中義一内閣の思想弾圧を批判して三大国難決議案を提出する
・1931年(昭和6) 「治安維持法」の全廃と軍縮を主張するなど、反軍国主義、反ファシズムの立場を明確にする
・1941年(昭和16) 大政翼賛運動を批判し、鳩山一郎らと同交会を結成する
・1942年(昭和17) 翼賛選挙では推薦制を批判した公開質問状を東条英機首相に送付、自らは非推薦で立候補して当選する
・1942年(昭和17) 志田川大吉郎の応援演説での発言を理由に不敬罪で起訴され一審で有罪判決(懲役8ヶ月執行猶予2年)を受ける
・1944年(昭和19) 大審院では無罪となる
・1946年(昭和21) 勲一等旭日大綬章を返上する
・1946年(昭和21) 第22回総選挙では三重全県一区でトップ当選する
・1947年(昭和22) 中選挙区制となった第23回総選挙でも三重2区からトップ当選する
・1953年(昭和28) 第26回衆議院議員総選挙で落選し、政界から引退、衆議院から名誉議員の称号を贈られる
・1954年(昭和29)10月6日 直腸がんによる栄養障害と老衰のため東京の慶應病院において95歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事
1942年(昭和17) | 日本文学報国会が企画・選定した「愛国百人一首」が情報局より発表される | 詳細 |
1959年(昭和34) | 国連総会において「児童の権利に関する宣言」が採択される(世界こどもの日) | 詳細 |
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