tokugawaienari01

 今日は、江戸時代中期の1773年(安永2)に、江戸幕府第11代将軍徳川家斉の生まれた日ですが、新暦では11月18日となります。
 徳川家斉(とくがわ いえなり)は、御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男(母は側室のお富の方)として生まれましたが、幼名は豊千代といいました。1781年(天明元)に、第10代将軍徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、家治の養子となり、将軍後継者として、江戸城西の丸に移ります。
 翌年に天明の太飢饉が始まる中で元服し、家斉と名乗り、従二位権大納言に叙任されましたが、1783年(天明3年7月)には浅間山天明大噴火が起こりました。1786年(天明6)に家治が50歳で急死し、田沼意次が失脚した翌年に、第11代将軍として宣下されますが、天明の打ちこわしが起き、世情は騒然とします。
 その中で、松平定信を老中筆頭として、寛政の改革が始まりました。1789年(寛政元)に棄捐令発布、翌年人足寄場を江戸石川島に設置、朱子学以外の学問を禁止(寛政異学の禁)など一連の改革が進められますが、思うようにはいかず、1793年(寛政5)に父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わりを告げます。
 定信の引退後は親政し、右大臣・左大臣・太政大臣となり、町人文化が成熟した、いわゆる文化文政時代を現出したものの、財政窮乏化、綱紀紊乱、士風の著しい退廃を招きました。また、1804年(文化元)にロシア使節レザノフが長崎に来航するなど外圧が強まる中、1825年(文政8)には、「異国船打払令」を出しています。
 1833年(天保4)に天保の大飢饉が起き、1837年(天保8)に大坂で大塩平八郎の乱が起こる中で、次男・家慶に将軍職を譲り、大御所として幕政の実権は握りました。側室40人、子女55人を設けましたが、1841年(天保12年閏1月7日)に江戸城内において、数え年69歳で亡くなっています。

〇徳川家斉関係略年表(日付は旧暦です)

・1773年(安永2年10月5日) 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男(母は側室のお富の方)として生まれる
・1781年(天明元年閏5月18日) 第10代将軍徳川家治の養子となり、将軍後継者として、江戸城西の丸に移る
・1782年(天明2年) 天明の太飢饉が起こる
・1782年(天明2年4月3日) 元服し、家斉と名乗り、従二位権大納言に叙任される
・1783年(天明3年7月) 浅間山天明大噴火が起こる
・1786年(天明6年8月) 第10代将軍徳川家治が50歳で急死し、田沼意次が失脚する
・1787年(天明7年4月15日) 正二位内大臣に昇叙転任し、右近衛大将を兼任、併せて征夷大将軍・源氏長者宣下される
・1787年(天明7年5月) 天明の打ちこわしが起きる 
・1787年(天明7年6月) 松平定信が老中筆頭になる。 → 寛政の改革が始まる
・1789年(寛政元年) 島津重豪の娘・近衛寔子と結婚する
・1789年(寛政元年9月) 棄捐令発布される
・1790年(寛政2年2月) 人足寄場が江戸石川島に設置される
・1790年(寛政2年5月) 朱子学以外の学問が禁止される(寛政異学の禁)
・1793年(寛政5年7月) 家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わる
・1804年(文化元年9月) ロシア使節レザノフが長崎に来航する
・1816年(文化13年4月2日) 右大臣に転任する
・1817年(文化14年) 老中首座松平信明が病死する
・1818年(文政元年) 側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命する
・1822年(文政5年2月6日) 従一位左大臣に昇叙転任し、左近衛大将を兼任する
・1825年(文政8年2月) 幕府が異国船打払令を出す
・1827年(文政10年2月16日) 太政大臣に転任する
・1828年(文政11年10月) シーボルト事件が起こる
・1833年(天保4年) 天保の大飢饉が起きる
・1834年(天保5年) 水野忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる
・1837年(天保8年2月) 大坂で大塩平八郎の乱が起こる
・1837年(天保8年4月) 次男・家慶に将軍職を譲り、大御所として幕政の実権は握る
・1837年(天保8年6月) 越後柏崎で生田万の乱が起きる
・1837年(天保8年6月) モリソン号事件が起きる
・1839年(天保10年5月) 渡辺崋山、高野長英らが処罰される(蛮社の獄)
・1840年(天保11年) 清(中国)でアヘン戦争が勃発する 
・1841年(天保12年閏1月7日) 江戸城内において、数え年69歳で亡くなる