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 今日は、 平安時代中期の930年(延長8)に、第60代の天皇とされる醍醐天皇の亡くなった日ですが、新暦では10月23日となります。
 醍醐天皇(だいごてんのう)は、885年(元慶9年1月18日)に、京都において、臣籍に降下していた源定省(のちの宇多天皇)の長男(母は内大臣藤原高藤の娘)として生まれましたが、名は維城(これざね)と言いました。887年(仁和3)に父の皇籍復帰と即位に伴い、皇族に列し、890年(寛平元)に親王宣下され、翌年に敦仁(あつぎみ)と改名します。
 893年(寛平5)に立太子し、父宇多天皇から壺切御剣を下賜され、897年(寛平9年7月3日)に元服すると同日践祚し、同月13日に第60代とされる天皇として即位、藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、親政を行いました。しかし、901年(昌泰4)に藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷する昌泰の変が起こります。
 901年(昌泰4)に『日本三代実録』が完成・撰上され、翌年には、班田の励行や荘園整理令を発布、905年(延喜5)に『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じ、『延喜式』を時平に編纂させ、907年(延喜7)には『延喜格』が完成し、撰上されるなど事績を積み上げました。これらの政務への精励やその治績は、後世に62代の村上天皇の時代とともに「延喜・天暦の治」と称えられたものの、律令政治の衰微過程にあったとされています。
 909年(延喜9)に時平が亡くなり、911年(延喜11)に保明親王も21歳で早世、慶頼王を皇太孫としましたが、913年(延喜13)に5歳で夭折するなど不幸が続きました。これらは、菅原道真の怨霊の仕業と噂されたため、923年(延喜23)に菅原道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努めます。
 ところが、930年(延長8)に、清涼殿落雷事件が起きると体調を崩し、同年9月22日に皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位(朱雀天皇)し、同月29日に出家(法名は宝金剛)すると同日に数え年46歳で亡くなりました。尚、和歌に堪能で、以後の勅撰集に計43首が入集しているほか、家集『延喜御集』も編んでいます。

<代表的な歌>

・「春風の 吹かぬ世にだに あらませば 心のどかに 花は見てまし」(続後撰和歌集)
・「かくてこそ 見まくほしけれ 万代を かけてにほへる 藤浪の花」(新古今和歌集)
・「うつつにぞ とふべかりける 夢とのみ 迷ひしほどや 遥けかりけむ」(後撰和歌集)
・「人ごころ たのみがたきは 難波なる 葦のうら葉の うらみつべきを」(延喜御集)
・「いはひつる ことだまならば 百年の 後もつきせぬ 月をこそ見め」(玉葉和歌集)

〇醍醐天皇の主要な著作

・『醍醐天皇御記』
・家集『延喜御集』

☆醍醐天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・885年(元慶9年1月18日) 京都において、宇多天皇の第1皇子(母は内大臣藤原高藤の娘)として生まれる
・887年(仁和3年) 父の皇籍復帰と即位(宇多天皇)に伴い、皇族に列する
・890年(寛平元年12月28日) 親王宣下される
・891年(寛平2年12月17日) 敦仁(あつぎみ)に改名する
・892年(寛平4年) 菅原道真の編纂により『類聚国史』が完成・成立する
・893年(寛平5年4月2日) 立太子し、父宇多天皇から壺切御剣を下賜される
・897年(寛平9年7月3日) 元服すると同日践祚する
・897年(寛平9年7月13日) 第60代とされる天皇として即位し、藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せる
・901年(昌泰4年2月) 藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰員外帥に左遷する(昌泰の変)
・901年(昌泰4年8月) 『日本三代実録』が完成し、撰上される 
・902年(延喜2年) 時平と共に班田の励行や荘園整理令を発布する
・905年(延喜5年) 『古今和歌集』の撰進を紀貫之らに命じる
・905年(延喜5年) 『延喜式』を藤原時平に編纂させる
・907年(延喜7年11月) 『延喜格』が完成し、撰上される 
・909年(延喜9年) 藤原時平が亡くなる
・911年(延喜11年) 保明親王も21歳で早世する
・913年(延喜13年) 慶頼王を皇太孫としたが、5歳で夭折する
・914年(延喜14年) 三善清行が意見封事十二箇条が奏上する
・923年(延喜23年) 菅原道真を左遷した詔を覆し、道真を右大臣に復したうえ贈位を行ってその慰霊に努める
・927年(延長5年12月) 『延喜式』が完成し、撰上される
・930年(延長8年6月) 清涼殿落雷事件が起きる
・930年(延長8年9月22日) 皇太子寛明親王(保明親王の同母弟)に譲位(朱雀天皇)する
・930年(延長8年9月29日) 出家(法名は宝金剛)すると同日に数え年46歳で亡くなる
・930年(延長8年10月10日) 山城国宇治郡山科陵に土葬される