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 今日は、鎌倉時代の1192年(建久3)に、源頼朝が征夷大将軍に就いた日ですが、新暦では8月21日となります。
 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、奈良・平安時代には、蝦夷(えみし)を鎮撫するために派遣される遠征軍の指揮官です。794年 (延暦13) に大伴弟麻呂が任命されたのが最初で、坂上(さかのうえ)田村麻呂は有名でした。
 一時中絶したものの、平安時代後期の源平合戦の際にその称号が復活し、1184年(寿永3)に源義仲が任命され、1192年(建久3)に源頼朝が征夷大将軍になって、鎌倉に幕府を開き、武家政権の首長の職名となります。その後、室町幕府の足利氏、江戸幕府の徳川氏に引き継がれ、1867年(慶応3)王政復古で廃止されました。

〇源頼朝(みなもと の よりとも)とは?

 武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
 1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
 しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けました。
 1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させます。戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定しました。
 1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになります。その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きました。
 そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなっています。

☆源頼朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1147年(久安3) 平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれる
・1156年(保元元)7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・1159年(平治元) 平治の乱に敗れて、父・源義朝が殺される
・1160年(平治2) 伊豆国に流されることになる
・1177年(治承元) 配流先で北条政子と結婚する
・1180年(治承4) 以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵したが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびる
・1180年(治承4) 富士川の戦いで平氏軍を破る
・1183年(寿永2)5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・1184年(寿永3) 宇治川の戦いで源義経が源義仲を討つ
・1185年(寿永4) 壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させる
・1187年(文治3)2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・1189年(文治5) 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討ち、頼朝が奥州に向けて出兵、原泰衡を殺害して、奥州を平定する
・1190年(建久元) 上京して権大納言、右近衛大将に任じられる
・1192年(建久3) 征夷大将軍となる
・1199年(建久10)1月13日 相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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