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 今日は、平安時代前期の794年(延暦13)に、桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発した日ですが、新暦では7月14日となります。
 坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、奈良時代から平安時代前期の武将・征夷大将軍です。758年(天平宝字2年)に、阿知使主を祖先とした東漢氏の一族であった、左京大夫・坂上苅田麻呂の子(母は畝火浄永の娘とも)として生まれました。
 武術に秀で、780年(宝亀11)に近衛将監、785年(延暦4)に従五位下、787年(延暦6)に近衛少将となり、791年(延暦10)には征夷副使となり、793年(延暦12)に征夷大将軍大伴弟麻呂に従って東北へ向かいます。翌年蝦夷を討ち、796年(延暦15)に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、鎮守将軍も兼任しました。
 797年(延暦16)に征夷大将軍に任命され、801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて東北へ向い、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢の地を攻略し、10月に平安京に凱旋して、節刀を返上します。802年(延暦21)に胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣され、鎮守府を多賀城から移しました。
 さらに、803年(延暦22)にも造志波城使として、陸奥国に派遣され北進して、同年4月には、夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼を500余人を率いて降伏させました。翌年には再び征夷大将軍に任命され、蝦夷地経略の多大な功績によって、805年(延暦24)には参議となって公卿に列します。
 その後、中納言を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至りましたが、この間の810年(弘仁元)に起きた薬子の変でも、美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努めました。京都清水寺の草創にも関わりましたが、811年(弘仁2)に平安京粟田口の別荘において、数え年54歳で亡くなり、従二位を追贈されています。

〇坂上田村麻呂関係略年表(日付は旧暦です)

・758年(天平宝字2年) 左京大夫・坂上苅田麻呂の子として生まれる
・780年(宝亀11年) 近衛将監となる
・785年(延暦4年) 従五位下に叙せられる
・787年(延暦6年) 近衛少将となる
・791年(延暦10年) 征東副使に任命される
・793年(延暦12年) 東北へ向かって軍を進発させる
・794年(延暦13年) 征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討つ
・795年(延暦14年) 従四位下に叙せられる
・796年(延暦15年1月25日) 陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命される
・796年(延暦15年10月27日) 鎮守将軍を兼任する
・797年(延暦16年11月5日) 征夷大将軍に任命される
・798年(延暦17年閏5月24日) 従四位上に叙せられる
・799年(延暦18年5月) 近衛権中将となる
・801年(延暦20年2月14日) 第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて東北へ向う
・801年(延暦20年10月28日) 平安京に凱旋して、節刀を返上する
・801年(延暦20年11月7日) 従三位に叙せられる
・801年(延暦20年12月) 近衛中将となる
・802年(延暦21年1月9日) 胆沢城を築くため、造陸奥国胆沢城使として陸奥国に派遣される
・803年(延暦22年3月6日) 造志波城使として、陸奥国に派遣される
・803年(延暦22年4月15日) 夷大墓公阿弖流為、盤具公母礼が500余人を率いて降伏する
・804年(延暦23年1月28日) 4度目の蝦夷征討が計画され、再び征夷大将軍に任命される
・805年(延暦24年) 参議となって公卿に列する
・806年(大同元年3月18日) 中納言となる 
・806年(大同元年3月21日) 中衛大将となる
・807年(大同2年4月12日) 右近衛大将となる
・807年(大同2年8月14日) 侍従も兼任する
・807年(大同2年11月16日) 兵部卿を兼任する
・809年(大同4年3月30日) 正三位に叙せられる
・810年(弘仁元) 平城上皇の平城遷都に擬し造宮使となる
・810年(弘仁元年9月6日) 薬子の変が起る
・810年(弘仁元年9月10日) 大納言に昇進する
・810年(弘仁元年9月12日) 美濃路を固め上皇軍の鎮圧に努める
・811年(弘仁2年5月23日) 平安京粟田口の別荘において、数え年54歳で亡くなる

☆桓武天皇(かんむてんのう)とは?

 奈良時代から平安時代前期に活躍した第50代の天皇です。737年(天平9)に、京都において白壁王(後の光仁天皇)の長男(母・高野新笠)として生まれましたが、名は日本根子皇統弥照尊(やまとねこすめろぎいやてりのみこと)と言いました。
 770年(宝亀元年10月1日)に、父の白壁王が第49代の光仁天皇として即位すると、四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、母が渡来人の出身だったため第一皇子でしたが、皇太子となれないでいます。しかし、772年(宝亀3)に、皇后井上内親王が厭魅の罪で廃后とされ、翌年にその子他戸親王も廃太子されると、773年(宝亀4)に皇太子となりました。
 781年(天応元年4月3日)に父・光仁天皇から譲位されて、数え年48歳で第50代の天皇となるとすぐに、同母弟の早良親王を皇太子と定めます。782年(延暦元)に、勘解由使を設置し、784年(延暦3)には、奈良寺院勢力の抑制も意図し、それまでの平城京から、山背国(現在の京都府)の長岡京への遷都を断行しました。
 しかし、翌年藤原種継暗殺の廉により、早良親王を廃太子の上で流罪に処し、死に至らしめる事件が起きます。その後、皇后乙牟漏、夫人旅子など近親の死亡が相次ぎ、早良親王の怨霊の所為とされたため、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの提言もあり、長岡京造営を中止し、794年(延暦13)に、山背の葛野に遷都し、平安京と命名するとともに、山背国を山城国と改めました。一方、律令国家としての強化・拡大をはかって、789年(延暦8)に、紀古佐美を征東大使とする最初の東北への遠征軍を送りますが惨敗しました。
 792年(延暦11)には、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布き、794年(延暦13)の東北への2度目の遠征で征夷大将軍・大伴弟麻呂の補佐役として坂上田村麻呂が活躍します。795年(延暦14年)に、公出挙を5割から3割に減税したり、雑徭の日限を30日に半減するなど農民の負担軽減を図り、797年(延暦16)には、2番目の官撰国史『続日本紀』が完成し、奏上されました。
 また、801年(延暦20)には、東北への3度目の遠征で坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送り、翌年に胆沢城(現在の岩手県)を築かせるなどして、東北地方へ朝廷権力を拡大します。尚、804年(延暦23)に、遣唐使により、最澄と空海を唐に渡らせ、奈良時代の仏教政治の弊害を除くために、新宗派(天台宗・真言宗)の設立を助けました。
 しかし、晩年に政策は行き詰まり、805年(延暦24)に藤原緒嗣の建議によって造都・征夷の事業を中止、翌年3月17日に、京都において数え年70歳で亡くなっています。

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