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 今日は、江戸時代後期の1794年(寛政6)に、新井白石の子孫である新井成美が、新井白石著『西洋紀聞』を江戸幕府に献上して時服を賜った日ですが、新暦では7月6日となります。
 『西洋紀聞』(せいようきぶん)は、江戸時代中期の1715年(正徳5)に成立した、新井白石著の西洋の研究書です。1708年(宝永5年8月29日)に、イタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチが屋久島に上陸しましたが、すぐに捕えられて江戸に送られ、新井白石が訊問に当たって、この書を著述しました。全3巻で、上巻はシドッティ渡来の事情と訊問から獄死に至る経緯、中巻はシドッティが語った五大州の地理・歴史・風俗・物産および国内事情、下巻はキリスト教の教義と布教についてのシドッティの解説とそれへの白石の批判から成っています。秘本とされ、公刊されたのは1882年(明治15)ですが、1793年(寛政5)に、幕命により献上した後は、知識人の間に広まっていました。

〇新井白石(あらい はくせき)とは?

 江戸時代中期に活躍した儒学者・政治家です。江戸時代前期の1657年(明暦3年2月10日)に、上総久留里藩士新井正済と妻千代の子として江戸神田柳原に生まれましたが名は君美(きんみ)といいました。
 初め父正済と共に久留里藩主土屋利直に仕え、寵愛されましたが、1677年(延宝5)に土屋家の内争に連座して追放禁錮の処分を受けます。しかし、1679年(延宝7)土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)に至り大老堀田正俊へ出仕しました。
 ところが、1684年(貞享元)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたります。1693年(元禄6)に、師木下順庵の推挙で、甲斐府中藩主徳川綱豊の侍講となりました。
 1709年(宝永6)に5代将軍綱吉の死によって、綱豊が6代将軍家宣となると、間部詮房とともに将軍を補佐し幕政に参画、7代家継も補佐します。その中で、朝鮮使節の待遇改革、金銀貨改良、長崎貿易制限、司法改革などをすすめて幕政の改善につとめ、「正徳の治」と言われました。
 8代将軍吉宗の就任にともない失脚して引退、その後は、著述活動に勤しみ、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わします。朱子学を基本として、歴史学、地理学、国語学、兵学など多方面に才能を発揮、漢詩人としても高く評価されましたが、1725年(享保10年5月19日)に、68歳で亡くなりました。

<新井白石の主要な著書>

・『藩翰譜 (はんかんぷ) 』 (1701年)
・『采覧異言』 (1708年)
・『読史余論』 (1712年)
・『采覧 (さいらん) 異言』 (1713年)
・『西洋紀聞』 (1715年)
・『古史通』 (1716年)
・『古史通或問』(1716年)
・『折たく柴の記』 (1716年起筆)
・『東雅』 (1719年)
・『南島志』 (1719年)
・『蝦夷志』(1720年)
・『東音譜』
・『同文通考』
・『白石詩草』
・『本朝軍器考』
・『白石手簡』
・『新井白石日記』
・『先哲像伝』

☆『西洋紀聞』上卷の冒頭部分

寶永五年戌子十二月六日、西邸にて承りしは、去八月、大隅國の海島に、番夷ありて一人來り止まる、日本江戶長崎などいふ事の外は、其言語きゝわきまふべからず、みづから紙上に數圏をしるして、ロウマ、ナンバン、ロクソン、カステイラ、キリシタンなどさしいひ、ロウマといひし時には其身をゆびざせり、此事長崎に注進す、阿蘭陀人にたづねとふに、ロウマといふは、西洋イタリヤの地名にて、天主敎化の主ある所也、ロクソン、カステイラ等のごときは、いかにも心得がたしといふ、又南京、寧波、厦門、臺灣、廣東、東京、暹羅等の人にとふにも、キリシタンといふは、邪敎の名目とは聞及びぬ、其餘の事は心得られずと申すといふ也、と仰下さる、美承りて、其人、西洋の國より來れるは、一定に侍るならむ、されど、其ことばの聞得べからずと申すは、心得られずと申す、かさねて其故を尋下さる、ふるく候ひし人の申せし事を承り覺候し事も侍り、彼地方の人は、きはめてよく萬國のことばに通じ侍りければ、むかし、ナンバンの人、我國に來りし初、數日がほどに、我國のことばに通じ得て、つゐに其敎をも傳へしと申し候ひき、其法の此國に行はれし事も年久しく、其國の人常にゆきかよひ、又此法禁ぜられし時、我國の人其敎に隨ひしものども、彼國に渡しつかはされしも數多く候ひき、されば、彼國の人、此土の言葉はよく通じ候ひなむ歟、我國にもとむる事ありて來らむものゝ、其ことばに通ぜざらむには、なにゝよりてか、其志をもとげ候べき、但し五方の語言同じからずして、其中また古言今言ある事に候へば、其傳習ひし所、我國の中、いづこの人の言葉をか習ひ候ひぬらむ、ましてや、彼國の人、こゝに通ぜざる事、既に百年に近く候へば、今のこと葉に同じからぬ事も候べき歟、これらの心得したらむものして、聞かせ候はむには、いかむぞ其ことばをきゝわきまへぬ事の候べき、阿蘭陀人の申す所は、猶心得られず、ロクソンと申すは、宋元の代より此かた呂宋などしるせし國にて、其國より出し壺をば、我國の人葉茶を貯ふるに宜しとて、呂宋眞壺など申す事は、誰々もしり候ひぬ、またカステイラと申すは、イタリヤなど聞えし地に近き國にて、むかし、其國にて作り出せし菓子の、此土に傳へし物は、今も候なる、これらの事は、美なども其名を聞覺候ものを、其地方の人の心得がたきと申す事、尤心得がたく候歟と申す、申す所其謂ありと仰下されたりき、かくて、彼人は、法にまかせて刑せらるべしなど聞えし程に、其年も暮て、明れば六年己丑の正月十日に、國喪の御事ありて、それらの事も聞えず、此年もまた暮むとするに、十一月の初に至て、去年の冬、大隅國に來りとゞまれる外國の人、近き程にこゝに來るべし、其事の由を尋問ふべきもの也と、仰下さる、また去年長崎の奉行所注進の狀をも、うつし出されたり、これは、彼來りし由いまだ詳ならず、某が申せし事ありしによりて、某して尋問しめられんために、めされしとぞ聞えし、我國のことばのみならましかは、いかにも聞得べし、思ふに、地方人名、または其敎法等の事に至ては、其方言ぞ多かるべき、此法禁の巖なるによりて、阿蘭陀等の國の通事などいふものも、猶さとし得ぬ所ありと聞えたれは、此事に至ては、きはめて難事也、此事、奉行の許には其こと葉など飜譯のものありぬとおもひしかば、しかる物のあらむには、借し賜るべき由を申す、其事執政の人々に仰下されしかば、奉行の許より書三册を進らす、借し下されて、これを見るに、其敎法の大要など見えて、其こと葉を譯せし事はあらず、されど、其中一二の用にあたれる所なきにしもあらず、かくて、彼人こゝに至れりと聞えて、同月の廿二日に奉行所にして召對すべきに及びて、前の日奉行の人々にあひて、其事を約す、

(後略)

  「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1870年(明治3)日本4番目の洋式灯台である樫野埼灯台が初点灯する(新暦7月8日)詳細
1897年(明治30)「古社寺保存法」(明治30年6月10日法律第49号)が公布される詳細
1903年(明治36)満州問題に関する対露強硬論である「大学七博士意見書」が政府に提出される詳細
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