
『こゝろ』は、夏目漱石の長編小説で、漱石の代表作の一つです。1914年(大正3)4月20日~8月11日まで、「朝日新聞」で『心 先生の遺書』として連載され、同年9月20日に岩波書店より刊行(漱石自身の装丁)されました。
「上・先生と私」「中・両親と私」「下・先生と遺書」の三部構成となっており、私(大学生)が、鎌倉の海で会った先生に心惹かれて、傾倒していくものの、世間から隠遁したように生活している先生は容易に心を開かず、その謎の多い言動が、自殺した先生の遺書によって解明されるという構成をとっています。漱石自身の孤独と彼が生きた明治への運命的な一体感を暗示しているとされ、前作『行人』以来の自我と他人との問題を扱った晩年の代表作とされてきました。
この作品が、岩波書店にとっては、出版社として本格的に発刊した最初の小説となっています。
以下に、『こゝろ』の冒頭部分を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。
「上・先生と私」「中・両親と私」「下・先生と遺書」の三部構成となっており、私(大学生)が、鎌倉の海で会った先生に心惹かれて、傾倒していくものの、世間から隠遁したように生活している先生は容易に心を開かず、その謎の多い言動が、自殺した先生の遺書によって解明されるという構成をとっています。漱石自身の孤独と彼が生きた明治への運命的な一体感を暗示しているとされ、前作『行人』以来の自我と他人との問題を扱った晩年の代表作とされてきました。
この作品が、岩波書店にとっては、出版社として本格的に発刊した最初の小説となっています。
以下に、『こゝろ』の冒頭部分を掲載紙ておきますので、ご参照下さい。
〇夏目漱石著『こゝろ』の冒頭部分
上 先生と私
一
私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字(かしらもじ)などはとても使う気にならない。
私が先生と知り合いになったのは鎌倉(かまくら)である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。私は金の工面に二(に)、三日(さんち)を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たたないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧(すす)まない結婚を強しいられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心(かんじん)の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固もと)より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるにはまだ大分だいぶ)日数ひかず)があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留と)まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子むすこ)で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人(ひとり)ぼっちになった私は別に恰好(かっこう)な宿を探す面倒ももたなかったのである。
宿は鎌倉でも辺鄙(へんぴ)な方角にあった。玉突(たまつ)きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷(なわて)を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻(くすぶ)り返った藁葺(わらぶき)の間(あいだ)を通り抜けて磯(いそ)へ下りると、この辺へんにこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯(せんとう)のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑(にぎや)かな景色の中に裹(つつ)まれて、砂の上に寝(ね)そべってみたり、膝頭(ひざがしら)を波に打たしてそこいらを跳(はね)廻(まわ)るのは愉快であった。
私は実に先生をこの雑沓(ざっとう)の間(あいだ)に見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋(かけぢゃや)が二軒あった。私はふとした機会(はずみ)からその一軒の方に行き慣(な)れていた。長谷辺(はせへん)に大きな別荘を構えている人と違って、各自(めいめい)に専有の着換場(きがえば)を拵(こし)らえていないここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風(ふう)なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外(ほか)に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹(しお)はゆい身体(からだ)を清めたり、ここへ帽子や傘(かさ)を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へはいるたびにその茶屋へ一切(いっさい)を脱(ぬ)ぎ棄(すて)る事にしていた。
☆夏目漱石(なつめ そうせき)とは?
明治時代後期から大正時代に活躍した日本近代文学を代表する小説家です。1867年(慶応3)1月5日に、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区)で、代々名主であった家の父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれましたが、本名は金之助といいました。
成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。
成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)から、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)英文学科に入学します。卒業後、松山で愛媛県尋常中学校(現在の松山東高校)の教師、熊本で第五高等学校(現在の熊本大学)の教授などを務めた後、1900年(明治33年)からイギリスへ留学しました。
帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、1905年(明治38)から翌年にかけて『我輩は猫である』を『ホトトギス』に発表し、一躍文壇に登場することになります。その後、『倫敦塔』、『坊つちやん』、『草枕』と続けて作品を発表し、文名を上げました。
1907年(明治40)に、東京朝日新聞社に専属作家として迎えられ、職業作家として、『三四郎』、『それから』、『門』、『こころ』などを執筆し、日本近代文学の代表的作家となります。しかし、『明暗』が未完のうち、1916年(大正5)12月9日に、東京において、50歳で亡くなりました。
<夏目漱石の主要な著作>
・『我輩は猫である』(1905~06年)
・『倫敦塔』(1905年)
・『幻影(まぼろし)の盾』(1905年)
・『坊つちやん』(1906年)
・『草枕』(1906年)
・『虞美人草』(1907年)
・『三四郎』(1908年)
・『それから』 (1909年)
・『門』 (1910年)
・『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』(1912年)
・『行人(こうじん)』(1912~13年)
・『こゝろ』(1914年)
・『道草』(1915年)
・『明暗』(1916年)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1546年(天文15) | 河越城の戦いで北条氏康が河越城包囲の上杉方を夜襲し勝利する(新暦5月19日) | 詳細 |
| 1651年(慶安4) | 江戸幕府三代将軍徳川家光の命日(新暦6月8日) | 詳細 |
| 1924年(大正13) | 宮沢賢治著の詩集『春と修羅』(関根書店)が刊行される | 詳細 |
| 1926年(大正15) | 「青年訓練所令」が公布され、在郷軍人や青年団幹部を職員とした青年訓練所が各地に設置される | 詳細 |
| 1947年(昭和22) | 飯田大火で4,010戸が焼失する | 詳細 |
| 1974年(昭和49) | 「日中航空協定」が調印(効力発生は同年5月24日)される | 詳細 |
| 1978年(昭和53) | 小説家橋本英吉の命日 | 詳細 |
| 2005年(平成17) | 小説家丹羽文雄の命日 | 詳細 |
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