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 今日は、鎌倉時代の1268年(文永5)に、鎌倉幕府が蒙古来襲(元寇)に備えて西国御家人らに防備を命じた日ですが、新暦では4月10日となります。
 元寇(げんこう)は、鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼ばれてきました。
 台風の襲来によるモンゴル軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
 モンゴル軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになります。やむを得ず幕府は「永仁の徳政令」などを発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
 これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。

〇元寇関係略年表(日付は旧暦です)

<1266年(弘長元)>
・11月 第1回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参したが、高麗から帰国する

<1268年(文永5)>
・1月 第2回の蒙古の使節が日本を訪れ国書(蒙古国牒状)を持参し、大宰府で渡す
・2月27日 鎌倉幕府が蒙古来襲(元寇)に備えて西国御家人らに防備を命じる

<1269年(文永6)>
・2月 第3回の蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した
・9月 第4回の蒙古の使節が拉致した対馬の住民を護送する使者が大宰府を訪れる

<1271年(文永8)>
・9月 第5回の蒙古の使節が日本の大宰府を訪れ国書を持参した

<1272年(文永9)
・2月または4月 第6回の蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した

<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する
・10月5日 蒙古軍が対馬に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月14日 蒙古軍が壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する
・10月16-17日 蒙古軍が肥前沿岸に襲来する
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する(文永の役終了)

<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する

<1276年(建治2)>
・3月10日 鎌倉幕府が、蒙古再来に備えて築前の海岸に石塁(石築地)を築かせるように指示する
・8月 元寇防塁(石築地)が、ほぼ完成する

<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する(弘安の役終了)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1890年(明治23)東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸を出す詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1983年(昭和58)歴史学者・文学博士井上光貞の命日詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細