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 今日は、鎌倉時代の1207年(承元元)に、鎌倉幕府が、法然を土佐に、親鸞を佐渡に流し、専修念仏を禁止した日ですが、新暦では3月18日となります。
 専修念仏(せんしゅうねんぶつ)は、他の行をせず、極楽に往生するためにひたすら念仏を称えることです。主として、法然やその門流の宗教的立場を示す語で、法然流の念仏をさすことが多く、「南無阿弥陀仏」とただひたすらに念仏を唱えることとされてきました。
 鎌倉時代の1204年(元久元)に、延暦寺の衆徒が専修念仏の停止を座主に訴え、1205年(元久2)には、興福寺衆徒が八宗の人々とともに念仏の禁断を後鳥羽院に訴えています。1207年(建永2)には、諸宗の嫉視により、鎌倉幕府は、法然を土佐国、親鸞を佐渡国へ流罪としました。
 その後、法然は、1211年(建暦元)に許されて、吉水の禅房に帰ったものの、翌年1月25日に、京都において78歳で亡くなります。親鸞は、1211年(建暦元)に赦免されましたが、法然の死を知って京都に帰らず、信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努めました。

〇法然(ほうねん)とは?

 平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した僧侶で、浄土宗の開祖です。1133年(長承2年4月7日)に、美作国久米南条稲岡荘(現在の岡山県久米郡久米南町)に、押領使の父・漆間時国、母・秦氏君(はたうじのきみ)清刀自との子として生まれましたが、本名は源空と言いました。
 稲岡荘の預所明石定明の夜襲を受けて父が亡くなり、菩提寺にいた叔父の観覚にひきとられて剃髪します。1147年(久安3)に比叡山に登り源光、皇円、叡空に師事し、天台および諸宗を学び、黒谷で法然房源空と称しました。
 1175年(安元元)に称名念仏に専念する立場を確立し、比叡山を下り、浄土教に帰し洛東吉水に庵居して念仏を称えますが、これが浄土宗開宗の年とされています。1186年(文治2)に、勝林院で浄土の法義を談論(大原問答)しました。
 信者の増加に伴って迫害され、1207年(建永2)に諸宗の嫉視により、土佐国への流罪となります。その後、許されて1211年(建暦元)に吉水の禅房に帰りましたが、翌1212年(建暦2年1月25日)に、京都において78歳で亡くなりました。

〇親鸞(しんらん)とは?

 鎌倉時代に活躍した僧侶・浄土真宗の開祖です。平安時代後期の1173年(承安3)4月1日に、京都の日野(現在の京都市伏見区日野)において、父・皇太后宮大進日野有範の長男として生まれましたが、幼名は松若磨(松若丸とも)と呼ばれました。
 幼時に母を失い、1181年(治承5)に数え年9歳で出家して、京都青蓮院に入り、慈円について得度し、範宴(はんえん)と号したとされます。その後、比叡山で堂僧として20年ほど天台宗などを学びましたが、安心が得られず、1201年(建仁元)には、源空(法然)の門にはいり、専修念仏(浄土教)に帰依しました。
 1207年(建永2)に旧仏教の讒訴によって、念仏停止の法難に遭い、法然は土佐に、親鸞は越後に流され、現地の豪族の娘恵信尼と結婚し、善鸞と覚信尼をもうけたとされます。4年後の1211年(建暦元)に赦免されましたが、法然の死を知って京都に帰らず、信濃・下野・常陸の各地を遍歴して教化に努め、『教行信証』 (6巻) をまとめて、浄土真宗を開き、阿弥陀による万人救済を説きました。
 数え年62,3歳の頃京都に戻り、著作活動に重きを置き、『三帖和讃』、『唯信鈔文意』などを著わします。また、門弟の指導にも注力し、門下に真仏・性信・唯円などを輩出しましたが、1262年(弘長2年11月28日)に、京都において、数え年90歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1796年(寛政8)稲村三伯らが、日本最初の蘭和辞典『ハルマ和解』(江戸ハルマ)を完成する(新暦3月26日)詳細
1825年(文政8)江戸幕府が「異国船打払令」を出す(新暦4月6日)詳細
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1908年(明治41)米国移民に関する「日米紳士協約」第七号が締結され、日本からの移民が制限される詳細
1929年(昭和4)写真家田沼武能の誕生日詳細
1935年(昭和10)貴族院で菊地武夫議員が美濃部達吉の「天皇機関説」を非難し、天皇機関説問題の端緒となる詳細
1938年(昭和13)石川達三著の南京従軍記『生きてゐる兵隊』を掲載した雑誌『中央公論』3月号が発禁処分となる詳細