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 今日は、昭和時代前期の1932年(昭和7)に、ヘンリー・スティムソン米国務長官が日本の満州占領(満州事変)を非難する「スティムソン・ドクトリン」を発表した日です。
 「スティムソン・ドクトリン」(timson doctrine)は、昭和時代前期の1932年(昭和7)1月7日に、ヘンリー・スティムソン米国務長官が日本の満州占領(満州事変)を非難するために出した声明です。「ケロッグ・ブリアン条約」(パリ不戦条約)に違反する手段を用いてなされた、いかなる事態、条約、協定も承認しないと主張し、同時に、中国政策における「門戸開放政策」の方針を示したものでした。
 これに対して、日本は、1月16日に、芳沢謙吉外相が、「支那不統一の現状を斟酌されたし」と回答しています。3月11日には、国際連盟総会決議によって連盟加盟国の義務として確認され、同年の「チャコ宣言」、1933年(昭和8)の「ラテンアメリカ不戦条約」などにも採用されました。
 以下に、「スティムソン・ドクトリン」の日本語訳を掲載しておきますから、ご参照ください。

〇「スティムソン・ドクトリン」 1932年(昭和7)1月7日にワシントンで発表

<日本語訳>

 ワシントン、1932年1月7日

 次の書簡をできるだけ速やかに、貴国政府の代わりの外国駐在事務所に伝達を乞う。
 錦州における最近の軍事作戦により、1931年9月18日以前に存在し、南満州における中華民国政府の最後に残っていた現地当局は壊滅させられました。アメリカ政府は、日本と中国の間にある諸困難の種を究極的に解決すべく推進している国際連盟理事会によって、最近承認された中立的介入努力について引き続いて自信をもってはいます。しかしながら現下の情勢およびその中にある諸権利及び諸義務に鑑み、アメリカ政府は、日本帝国政府と中華民国政府の双方に対して、以下のように通知することが義務であると勘考しております。すなわちー。
 アメリカ合衆国の条約上の諸権利あるいは中国におけるアメリカ市民の諸権利、これには主権あるいは独立、中華民国の領土的あるいは行政的統一性などを含み、一般に門戸開放政策として知られる諸権利のことを指していますが、を損なうような両国政府(日本政府と中華民国政府のこと)あるいはその仲介者によるいかなる条約や合意を認めることはできませんし、既成事実によって作られたいかなる状況の合法性も承認することはできません。また1928年8月27日に締結されたパリ平和条約、これは中国も日本もアメリカも締結国でありますが、の定める義務及び盟約に反するいかなる状況、条約、合意も承認する意図はありません。

〇「スティムソンに対する日本の回答」

 駐日アメリカ大使(フォーブス)から国務長官へ

 東京、1932年1月16日

 私は日本政府からの回答を受け取りました。それは以下にて読めます。
 ・・・日本政府は合衆国政府が、戦争の非合法性を謳った「ケロッグ・ブリアン条約」及びワシントンにおける諸条約の全ての詳細について完全かつ全般的に保障しようとする日本の努力をアメリカ政府がその全ての力をもって支持していることを良く承知しております。この事実を追加的に保証されたことは喜びに堪えません。
 閣下が特に触れられた、いわゆる「門戸開放政策」に関して言えば、日本政府は、しばしば指摘されている如く、極東の政治において主要な特徴をなす政策だと見なしております。また中国を通じて明らかになった不安定な情勢によって、その効力が深刻なまでに失われていることを残念に思っています。彼らが門戸開放政策を保証する限りにおいて、門戸開放政策は満州および中国本土において、常に維持されるでありましょう。
 彼らは、アメリカ政府によってなされた声明の後半部分、すなわち、1928年8月27日の「ケロッグ・ブリアン条約」に反する手段によってもたらされるかもしれない、あるいはアメリカ合衆国あるいはアメリカ市民の条約上の権利を損なうかも知れない非合法な事柄を承認しないとする部分に注意を払っております。現下の情勢で必要にして執られた手段が不適切であるかどうかまた安全保障に終止符を打つものであるかどうかは、学問的疑義に属するものであるかも知れません。日本は不適切な手段を執る意図はありませんので、そのような疑念は事実上発生しません。
 中国に関連する条約は、中国において、時にして明らかになる事柄の状況に応じて適応されねばならないということも付け加えなければならないかも知れません。また現在の中国における不安定かつ混乱した状態は、ワシントン条約が結ばれた時に、条約原締結国が熟慮したものではない、ということも付け加えた方が良いのかも知れません。その時、それは明らかに不十分なものでした。そこには現在みられるような敵愾心とか分断は明示されていませんでした。これは諸条約の明示事項やそこに込められた性格に影響を与えることはできません。しかしながら、現在それらがおかれた事実の状態に鑑み、当てはめてみることが必要なわけですから、もしかしてそれらの応用を試みることが必要かも知れません。
 私の政府(*日本政府のこと)は、満州における政権人事で発生している入れ替えは現地の住民とって必要な行為であったことを、指摘したいと思います。もしかりにそれが敵対的占領であったにせよー事実はそうではないのですがー、それは現地の政府高官にとって、その機能を維持する習慣的な行為なのです。現在の場合は彼らは辞任するかあるいは逃げ出しているのですが、それは政府諸機関の働きを破壊すると思量される彼ら自身の態度なのです。日本政府は、他のすべての人たちとは違って、現在の高官たちに見捨てられた時、文明的な状態を保証するに際して、中国の人たちが、かれら自身の自決の力や組織する力に乏しいと、考えることはできません。
 繰り返すまでもないことですが、日本は満州にいかなる領土的目的や野心を持つものではありません。しかし、閣下もご承知のように、満州の安全と福祉及び商取引一般の到達性は、日本の人々にとって極めて重要であり、極めて深甚な利益の問題であります。アメリカ政府にとって、すでに一度ならず示されているように極東における問題については、緊急の課題であります。現在の分岐点において、われわれの国家政策の存在が深く関わっている時、アメリカ政府が、現在の状況をより評価していただけるような地道な配慮を含む友好的な精神に邁進していただけるようであれば、合意は確かなものなりましょう。

☆満州事変(まんしゅうじへん)とは?

 昭和時代前期の1931年(昭和6)9月18日、中国東北部の奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まり、1933年(昭和8)5月31日の「塘沽協定」 での停戦まで続いた日本の満州(中国東北部)に対する軍事行動です。日露戦争後の1905年(明治38)9月4日締結の「ポーツマス条約」で利権を得た南満州鉄道株式会社 (満鉄) を拠点として、日本は満州に対する独占的支配に乗出し、政治的経済的進出をはかりました。
 その中で、関東軍が奉天郊外の柳条湖で満鉄を爆破し、これを中国軍の行為であるとして「自衛のため」と称して満鉄沿線一帯で軍事行動(柳条湖事件)を起します。若槻礼次郎内閣は、ただちに不拡大方針を取りましたが、現地軍は政府の方針を無視して、同年10月の錦州爆撃などにより南満州を占領、さらに北部満州の占領を企図し、11月チチハル占領、翌年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領して、東三省(奉天・吉林・黒竜江の3省)におよぶ満州全域を支配下におさめました。
 そして、1932年(昭和7)3月9日に、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を執政に就任させて傀儡国家「満州国」を建国させます。日本国内では、若槻礼次郎内閣が倒れて、犬養毅内閣が成立していましたが、五・一五事件によって犬養毅首相が暗殺され、斎藤実内閣に取って代られました。
 そして、9月15日に斎藤実内閣は「日満議定書」に調印して正式に満州国を承認します。そこで、国際連盟は中国の提訴により満州事変に関して、リットン調査団を派遣し、柳条湖事件は日本の自衛行動と認めず、満州国も否定する報告書を採択、日本軍の東北撤退を勧告することとなりました。
 しかし、日本はこれを拒否し、1933年(昭和8)2月からの熱河作戦で熱河省を占領、3月に国際連盟を脱退、5月31日には、中国との間で「塘沽協定」を結び停戦して、中国東北部での権益を確保し、「満州国」を既成事実化させることで満州事変は一応終わります。これらのことにより、国際連盟やアメリカとの対立を深め、この後、1937年(昭和12)7月7日の蘆溝橋事件による日中戦争全面化から、1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開戦へと進んでいくこととなりました。

☆満州事変関係略年表

<1931年(昭和6)>
・5月28日 汪兆銘ら広東に国民政府を樹立する
・6月27日 北満密偵中の中村大尉殺害される(8.17 関東軍、公表)
・7月2日 万宝山事件が起きる
・9月18日 関東軍が奉天郊外柳条湖の満鉄線路を爆破(柳条湖事件)、関東軍これを理由に総攻撃を始める(満州事変開始)
・9月19日 関東軍が奉天城を占領する
・9月28日 親日派軍閥が国民政府からの離脱を宣言する
・11月8日 天津で日中両軍激突、溥儀が天津を脱出する
・11月19日 関東軍がチチハルを占領する
・11月27日 中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)が樹立(主席は毛沢東)される
・12月28日 関東軍が錦州に進撃する

<1932年(昭和7)>
・1月1日 蒋介石と汪兆銘合体し、新国民政府が樹立(広東政府解消)される
・1月3日 関東軍が錦州占領し、黒竜江省独立宣言を出す
・1月5日 広東政府が解消される
・1月7日 ヘンリー・スティムソン米国務長官が日本の満州占領を非難する「スティムソン・ドクトリン」を発表する
・1月16日 芳沢謙吉外相からヘンリー・スティムソン米国務長官へ「スティムソンに対する日本の回答」が出される
・1月21日 満鉄調査会が新設される
・1月28日 上海事変が勃発(日本海軍の陸戦隊と中国軍が衝突)する
・2月5日 関東軍がハルビンを占領する
・3月1日 満州国建国宣言が発表される
・3月9日 溥儀が満州国執政に就任する
・4月26日 中華ソビエト政府が日本に宣戦布告する
・5月5日 上海からの日中両軍撤退の上海停戦協定に調印する
・5月15日 五・一五事件(海軍青年将校らが犬養首相を暗殺)が起きる
・6月11日 満州国が「貨幣法」を公布する
・6月15日 満州中央銀行が設立される
・7月11日 満州国が大同学院を設立する
・7月14日 関税自主声明が出される
・9月15日 「日満議定書」が調印そされ、日本は満州国を正式承認する
・10月15日 チャムスに第一次武装移民団が到着する
・12月1日 満州国に日本大使館が開設される

<1933年(昭和8)>
・1月1日 山海関で日中軍が衝突する
・1月3日 日本軍が山海関を占領する
・1月30日 ヒトラーがドイツ首相に就任する
・2月9日 満州国有鉄道経営を満鉄に委託する
・2月23日 関東軍が熱河省への進攻作戦を開始する
・3月4日 日本軍が熱河省承徳を占領する
・3月27日 日本政府が国際連盟脱退を通告する
・4月1日 満州国が非承認国に門戸封鎖する
・5月31日 「塘沽停戦協定」が成立し、一応満州事変が終結する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1868年(慶応4)新政府が「徳川慶喜追討令」を出す(新暦1月31日)詳細
1897年(明治30)詩人・童謡作家中村雨紅の誕生日(戸籍上は2月6日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
1996年(平成8)芸術家岡本太郎の命日詳細