
大江匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代中期の1041年(長久2)に、父・大学頭成衡(しげひら)、母・文章博士宮内大輔橘孝親の娘の子として生まれました。幼少のころから文才があったと伝えられ、8歳で『史記』『漢書』に通じ、11歳で詩を賦し、世人から神童といわれます。
1056年(天喜4)に、省試に合格して文章得業生、翌年に、丹波掾となり、1058年(康平元)には、対策に及第しました。1060年(康平3)に、治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙せられ、1067年(治暦3)には、東宮学士(春宮・尊仁親王)となりました。1068年(治暦4)に、尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられ、1069年(治暦5)には、蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任を果たします。
1078年(承暦2)に、自らの邸宅に江家文庫を設置、『内裏歌合』に出詠し、1080年(承暦4)に権左中弁として弁官局に復し、1081年(永保元)に左中弁となり、1083年(永保3)には、式部権大輔も兼ねました。1084年(応徳元)に左大弁となり、1086年(応徳3)に従三位に叙せられ、1087年(応徳4年)に式部大輔、1088年(寛治2年)には、正三位に叙せられ、参議となって公卿に列します。
1094年(寛治8)に従二位、権中納言となり、1096年(寛治10年)には、永長の大田楽を記録した『洛陽田楽記』を著しました。1097年(承徳元)に大宰権帥を兼ね、翌年には、筑前の大宰府に下向しましたが、1102年(康和4)には、任期満了に伴って京都に戻り、正二位に叙せられます。1105年(長治2)には、所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われました。1106年(嘉承元)に再び大宰権帥を兼ねましたが、病気もあって任地には下向せずに終わります。
1111年(天永2)に大蔵卿に遷任されたものの、同年11月5日に京都において、数え年71歳で亡くなっています。博学で、和歌、漢詩はもとより、歴史、儀式、遊芸から兵学にいたるまで通じていて、その著作は非常に多く、後三条、白河、堀河天皇の侍読ともなり、『後拾遺和歌集』以後の勅撰集に多くの秀作を残し、百人一首にも入りました。
1056年(天喜4)に、省試に合格して文章得業生、翌年に、丹波掾となり、1058年(康平元)には、対策に及第しました。1060年(康平3)に、治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙せられ、1067年(治暦3)には、東宮学士(春宮・尊仁親王)となりました。1068年(治暦4)に、尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられ、1069年(治暦5)には、蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任を果たします。
1078年(承暦2)に、自らの邸宅に江家文庫を設置、『内裏歌合』に出詠し、1080年(承暦4)に権左中弁として弁官局に復し、1081年(永保元)に左中弁となり、1083年(永保3)には、式部権大輔も兼ねました。1084年(応徳元)に左大弁となり、1086年(応徳3)に従三位に叙せられ、1087年(応徳4年)に式部大輔、1088年(寛治2年)には、正三位に叙せられ、参議となって公卿に列します。
1094年(寛治8)に従二位、権中納言となり、1096年(寛治10年)には、永長の大田楽を記録した『洛陽田楽記』を著しました。1097年(承徳元)に大宰権帥を兼ね、翌年には、筑前の大宰府に下向しましたが、1102年(康和4)には、任期満了に伴って京都に戻り、正二位に叙せられます。1105年(長治2)には、所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われました。1106年(嘉承元)に再び大宰権帥を兼ねましたが、病気もあって任地には下向せずに終わります。
1111年(天永2)に大蔵卿に遷任されたものの、同年11月5日に京都において、数え年71歳で亡くなっています。博学で、和歌、漢詩はもとより、歴史、儀式、遊芸から兵学にいたるまで通じていて、その著作は非常に多く、後三条、白河、堀河天皇の侍読ともなり、『後拾遺和歌集』以後の勅撰集に多くの秀作を残し、百人一首にも入りました。
<大江匡房の代表的な和歌>
・「高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ」(百人一首73番:後拾遺和歌集)
・「津の國の 蘆の葉凌ぎ 降る雪に 昆陽の篠屋も 埋もれにけり」
・「たかをかに 群れゐる人も 諸共に 千代契りし わかなをぞつむ」
・「箱根山 うすむらさきの つぼすみれ ふたしほみしほ たれか染めけむ」
・「春霞 立ちかくせども 姫小松 ひくまの野邊に 我は来にけり」(金葉和歌集)
・「山ざくら 千々に心の くだくるは 散る花ごとに そふにやあるらむ」(千載和歌集)
〇大江匡房の主要な著作
・『洛陽田楽(らくようでんがく)記』(1096年)
・有職故実書『江家次第(ごうけしだい)』
・『和漢朗詠集』の注釈『朗詠江注』
・説話集『江談抄』
・兵法書『闘戦経』
・『続本朝往生伝』(1101年~1111年成立)
・『本朝神仙伝』
・和歌集『江帥(ごうのそつ)集』
・『江都督納言願文(がんもん)集』(1061~1111年)
☆大江匡房関係略年表(日付は旧暦です)
・1041年(長久2年) 父・大学頭成衡(しげひら)、母・文章博士・宮内大輔橘孝親の女の子として生まれる
・1048年(永承3年) 8歳で『史記』『漢書』に通じる
・1051年(永承6年) 11歳で詩を賦し、世人から神童といわれる
・1056年(天喜4年) 16歳で、省試に合格して文章得業生となる
・1057年(天喜5年) 丹波掾となる
・1058年(康平元年) 18歳で対策に及第する
・1060年(康平3年) 治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙せられる
・1067年(治暦3年) 東宮学士(春宮・尊仁親王)となる
・1068年(治暦4年) 尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられる
・1069年(治暦5年) 29歳で蔵人・左衛門権佐・右少弁の三事を兼任する異例の昇任をする
・1078年(承暦2年) 自らの邸宅に江家文庫を設置、『内裏歌合』に出詠する
・1080年(承暦4年) 権左中弁として弁官局に復する
・1081年(永保元年) 左中弁となる
・1083年(永保3年) 式部権大輔も兼ねる
・1084年(応徳元年) 左大弁となる
・1086年(応徳3年) 従三位に叙せられる
・1087年(応徳4年) 式部大輔となる
・1088年(寛治2年) 正三位に叙せられ、参議となり、公卿に列する
・1094年(寛治8年) 従二位、権中納言となる
・1096年(寛治10年) 永長の大田楽を記録した『洛陽田楽(らくようでんがく)記』を著す
・1097年(承徳元年) 大宰権帥を兼ねる
・1098年(永長3年) 58歳で筑前の大宰府に下向する
・1102年(康和4年) 正二位に叙せられる
・1105年(長治2年) 所領に関連して興福寺西金堂衆と争い、西金堂衆に襲われて荘園を焼き払われる
・1106年(嘉承元年) 再び大宰権帥を兼ねるが、病気もあって任地には下向せず
・1111年(天永2年11月5日) 京都において、71歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事).
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事).
| 1854年(嘉永7) | 安政南海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月24日) | 詳細 |
| 1857年(安政4) | 吉田松陰が長州藩の許可を得て萩に松下村塾を開講する(新暦12月9日) | 詳細 |
| 1888年(明治21) | 日本画家・近代日本画の父狩野芳崖の命日 | 詳細 |
| 1895年(明治28) | 「日伯修好通商航海条約」が締結される(日本ブラジル修好記念日) | 詳細 |
| 1930年(昭和5) | 大原孫三郎が集めた西欧名画を展示する大原美術館(岡山県倉敷市)が開館する | 詳細 |
| 1937年(昭和12) | 社会運動家・小説家・評論家木下尚江の命日 | 詳細 |
| 1941年(昭和16) | 第7回御前会議の「帝国国策遂行要領」で対米交渉の甲乙二案を決定、決裂時は武力行使と決まる | 詳細 |
| 1954年(昭和29) | 日本とビルマ連邦が、ビルマのラングーンで「日本国とビルマ連邦との間の平和条約」に調印する | 詳細 |
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