日清戦争(にっしんせんそう)は、明治時代中頃の1894年(明治27)夏~1895年(明治28)4月17日まで、日本と清国の間で、朝鮮支配をめぐって行われた戦争です。1894年(明治27)1月上旬に、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し、大規模な農民反乱が勃発し、これに手を焼いた朝鮮政府は、6月に農民反乱鎮圧のため清国に援兵を依頼しました。
この状況下で、日本は日清間で結ばれた「天津条約」に基づき、これに対抗して出兵します。これを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めました。
しかし、日本は朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る一方で、イギリスとの条約改正(日英通商航海条約)に成功して同国の援助を期待し得る状況をつくります。その上で、清国との開戦を閣議決定し、ソウルの王宮を占領して親日派の大院君政権をつくりました。
これによって、清国との関係は険悪化し、7月25日に仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかけ、陸上でも朝鮮の成歓、牙山を占領し、実質的な開戦へと至ります。8月1日には、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、正式に宣戦が布告され、陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領、海軍も9月には黄海海戦に勝って制海権を握りました。
翌年2月には威海衛軍港陸岸を占領し、清国の北洋艦隊を降伏させ、3月に入ると牛荘、営口、澎湖列島を占領します。この中で、列国の講和勧告が相次ぎ、朝鮮でも抗日反乱が再起、清国からの講和打診もあって、3月下旬から下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文、陸奥宗光との間で講和会議が開始されました。
4月17日には、「下関条約(日清講和条約)」に調印しましたが、①清国が朝鮮の独立を承認すること、②遼東半島、台湾、澎湖島を清国から分割、日本の領土とすること、③清国は賠償金2億両(テール)(約3億円)を支払うこと、④沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港するほか、欧米諸国が清国にもっている通商上の特権を日本にも認めることなどが取り決められます。しかし、この6日後にロシア、ドイツ、フランスからいわゆる三国干渉を受け、5月4日には、日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとなりました。
これによって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東での覇権を争うようになったとされますが、死者1万7,000人、戦費約2億円にのぼっています。
この状況下で、日本は日清間で結ばれた「天津条約」に基づき、これに対抗して出兵します。これを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めました。
しかし、日本は朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る一方で、イギリスとの条約改正(日英通商航海条約)に成功して同国の援助を期待し得る状況をつくります。その上で、清国との開戦を閣議決定し、ソウルの王宮を占領して親日派の大院君政権をつくりました。
これによって、清国との関係は険悪化し、7月25日に仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかけ、陸上でも朝鮮の成歓、牙山を占領し、実質的な開戦へと至ります。8月1日には、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、正式に宣戦が布告され、陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領、海軍も9月には黄海海戦に勝って制海権を握りました。
翌年2月には威海衛軍港陸岸を占領し、清国の北洋艦隊を降伏させ、3月に入ると牛荘、営口、澎湖列島を占領します。この中で、列国の講和勧告が相次ぎ、朝鮮でも抗日反乱が再起、清国からの講和打診もあって、3月下旬から下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文、陸奥宗光との間で講和会議が開始されました。
4月17日には、「下関条約(日清講和条約)」に調印しましたが、①清国が朝鮮の独立を承認すること、②遼東半島、台湾、澎湖島を清国から分割、日本の領土とすること、③清国は賠償金2億両(テール)(約3億円)を支払うこと、④沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港するほか、欧米諸国が清国にもっている通商上の特権を日本にも認めることなどが取り決められます。しかし、この6日後にロシア、ドイツ、フランスからいわゆる三国干渉を受け、5月4日には、日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとなりました。
これによって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東での覇権を争うようになったとされますが、死者1万7,000人、戦費約2億円にのぼっています。
〇日清戦争関係略年表
<1893年(明治26)>
・4月 参謀本部次長川上操六に清国・朝鮮を視察させる
<1894年(明治27)>
・1月上旬 重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し大規模な農民反乱が勃発する
・5月 朝鮮では甲午農民戦争が勃発、朝鮮政府は日本亡命中の金玉均らが農民反乱に呼応することをおそれて、上海に誘い出して暗殺する
・6月 農民反乱鎮圧のため朝鮮政府は鎮圧のために清国と、次いで日本に援兵を依頼する
・6月5日 大本営を設置する
・6月12日 日本軍は仁川に上陸する
・6月24日 朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る
・7月14日 日本政府は二度目の絶交書を清国側へ通達する
・7月16日 イギリスとの条約改正の調印に成功する(日英通商航海条約)
・7月17日 清国との開戦を閣議決定する
・7月23日 ソウルの王宮を占領し、親日派の大院君政権をつくる
・7月25日、仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかける
・7月29日 牙山の北東、成歓で清国軍を打ち破る
・7月30日 牙山を占領する
・8月1日 「日清戦争宣戦の詔書」が発せられる
・9月14~15日 平壌の戦いで日本軍が勝つ
・9月17日 連合艦隊と北洋艦隊が黄海海戦を戦い、日本軍が勝って制海権を獲得する
・10月24~25日 日本軍は鴨緑江を渡って満州に入る
・11月19日 旅順を占領する
・11月 遼東半島の旅順、大連を占領する
<1895年(明治28)>
・1月 清国が講和使節を日本に送ってくる
・2月2日 威海衛軍港陸岸を占領する
・2月12日 清国の北洋艦隊が降伏する
・3月 遼東半島を完全に制圧し、さらに南方の台湾占領に向かう
・3月下旬 下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文,陸奥宗光との間に講和会議が開始される
・3月24日 清国全権李鴻章が日本人暴漢に狙撃され負傷する突発事件が起こる
・3月26日 澎湖列島を占領する
・3月30日 日本政府は周章して休戦に応じる
・4月17日 下関講和条約に調印する
・4月23日 ロシア,ドイツ,フランスからいわゆる三国干渉を受ける
・5月4日 日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとする
・5月8日 中国の芝罘(チーフー)で批准書の交換を行なう
・5月下旬 日本軍は領有権を得た台湾に上陸する
・11月下旬 台湾全土の平定を終えた後に行政機構を敷く
<1896年(明治29)>
・4月1日 台湾の軍政が民政へと移行されたのをみて、大本営が解散する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1629年(寛永6) | 紫衣事件に抗議した沢庵らを東北へ流罪にする(新暦9月12日) | 詳細 |
| 1683年(天和3) | 江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(天和令)15ヶ条を発布し、「諸士法度」と統合する(新暦8月26日) | 詳細 |
| 1929年(昭和4) | 映画監督・映画製作者で、「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三の命日 | 詳細 |
| 1933年(昭和8) | フェーン現象により山形県山形市で40.8℃を記録する | 詳細 |
| 1946年(昭和21) | 吉田茂内閣において、「農地制度改革の徹底に関する措置要綱」が閣議決定される | 詳細 |
| 1955年(昭和30) | 日本住宅公団が設立される | 詳細 |
| 1960年(昭和35) | 「身体障害者雇用促進法」(昭和35年法律第123号)が公布・施行される | 詳細 |
| 1985年(昭和60) | 「女子差別撤廃条約」を日本が批准し、日本において発効する | 詳細 |

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