
徳丸ヶ原洋式軍事演習(とくまるがはらようしきぐんじえんしゅう)は、江戸時代後期の1841年(天保12年5月9日)に、江戸幕府の命により、高島秋帆が徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で実施した、日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習です。1840年(天保11年9月)に高島秋帆は幕府に上書して、アヘン戦争の戦況を伝え、清国側の敗北を砲術の未熟に帰して、西洋砲術の採用による武備の強化を進言しました。
それにより、翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原洋式軍事演習(洋式砲術と洋式銃陣の公開演習)を実施することになります。当日は、老中以下の諸役人が見守る中で、長崎から連れてきた門人のほか江戸で入門した者も加えて総勢129名で、二つの歩兵部隊を編成したうえに騎兵3騎、野戦砲3門の操演をも加えた本格的な調練を行いました。
その内容は、①モルチール砲の操練(ボンベン-榴弾、8町目先へ3発)、②モルチール砲の操練(ブランドコーゲル-焼夷弾、8町目先へ2発)、③ホーウイッスル砲の操練(ガラナート-柘榴弾、8町目先へ2発)、④ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル-葡萄弾、4町目先へ1発)、⑤馬上筒の操練(1往復3挺使用)、⑥ゲベール銃備打(97名が一斉射撃)、⑦野戦筒の操練(3門の砲を使用)、⑧剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名)というものでした。その結果、幕府は、高島流砲術を採用することとし、輸入砲をすべて買い上げ、併せて、代官江川英竜(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じています。
尚、1922年(大正11)に、陸軍を中心に高島秋帆を顕彰する動きがあり、当時の徳丸原の弁天塚に徳丸原遺跡碑(その後、徳丸ヶ原公園へ異説)、松月院に紀功碑がそれぞれ建立されました。
それにより、翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原洋式軍事演習(洋式砲術と洋式銃陣の公開演習)を実施することになります。当日は、老中以下の諸役人が見守る中で、長崎から連れてきた門人のほか江戸で入門した者も加えて総勢129名で、二つの歩兵部隊を編成したうえに騎兵3騎、野戦砲3門の操演をも加えた本格的な調練を行いました。
その内容は、①モルチール砲の操練(ボンベン-榴弾、8町目先へ3発)、②モルチール砲の操練(ブランドコーゲル-焼夷弾、8町目先へ2発)、③ホーウイッスル砲の操練(ガラナート-柘榴弾、8町目先へ2発)、④ホーウイッスル砲の操練(ドロイフコーゲル-葡萄弾、4町目先へ1発)、⑤馬上筒の操練(1往復3挺使用)、⑥ゲベール銃備打(97名が一斉射撃)、⑦野戦筒の操練(3門の砲を使用)、⑧剣付ゲベール銃による銃隊調練(99名)というものでした。その結果、幕府は、高島流砲術を採用することとし、輸入砲をすべて買い上げ、併せて、代官江川英竜(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じています。
尚、1922年(大正11)に、陸軍を中心に高島秋帆を顕彰する動きがあり、当時の徳丸原の弁天塚に徳丸原遺跡碑(その後、徳丸ヶ原公園へ異説)、松月院に紀功碑がそれぞれ建立されました。
〇高島秋帆(たかしま しゅうはん)とは?
江戸時代後期の兵法家・砲術家・高島流砲術の創始者です。1798年(寛政10年8月15日)に、長崎において、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれましたが、名は茂敦(通称四郎太夫)と言いました。父から荻野流、天山流砲術を学び、1814年(文化11)には、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となります。
通詞にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり、出島に来たオランダ人から直接に兵学・西洋砲術を学び、大砲の購入・鋳造に努め、1834年(天保5年)には高島流砲術を完成させ、教授するようになりました。翌年には、入門して学んでいた肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上しています。
1840年(天保11年)のアヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言しました。翌年幕命で出府し、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ない、幕府に高島流砲術が採用され、幕臣江川太郎左衛門、下曾根金三郎の二人に高島流を皆伝して長崎に帰ります。
しかし、幕府町奉行鳥居耀蔵の讒言にあい、1842年(天保13)に謀反の罪を着せられ、お家断絶となって投獄されました。その後、幽囚10年の1853年(嘉永6)にペリー来航など世情も大きく変化したこともあって、赦免されて出獄、江川太郎左衛門の許に身を寄せます。
1855年(安政2)に、幕府の普請役に取り立てられ、翌年には具足奉行格となり、さらに講武所砲術師範役も勤めるようになりました。1864年(元治元)に『歩操新式』等の教練書を編纂、「火技中興洋兵開基」と称えられ、日本の軍事近代化に大きな足跡を残したものの、1866年(慶応2年1月14日)に、江戸において、数え年69歳で亡くなっています。
通詞にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり、出島に来たオランダ人から直接に兵学・西洋砲術を学び、大砲の購入・鋳造に努め、1834年(天保5年)には高島流砲術を完成させ、教授するようになりました。翌年には、入門して学んでいた肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上しています。
1840年(天保11年)のアヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言しました。翌年幕命で出府し、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ない、幕府に高島流砲術が採用され、幕臣江川太郎左衛門、下曾根金三郎の二人に高島流を皆伝して長崎に帰ります。
しかし、幕府町奉行鳥居耀蔵の讒言にあい、1842年(天保13)に謀反の罪を着せられ、お家断絶となって投獄されました。その後、幽囚10年の1853年(嘉永6)にペリー来航など世情も大きく変化したこともあって、赦免されて出獄、江川太郎左衛門の許に身を寄せます。
1855年(安政2)に、幕府の普請役に取り立てられ、翌年には具足奉行格となり、さらに講武所砲術師範役も勤めるようになりました。1864年(元治元)に『歩操新式』等の教練書を編纂、「火技中興洋兵開基」と称えられ、日本の軍事近代化に大きな足跡を残したものの、1866年(慶応2年1月14日)に、江戸において、数え年69歳で亡くなっています。
☆高島秋帆関係略年表(日付は旧暦です)
・1798年(寛政10年8月15日) 長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれる
・1814年(文化11年) 父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となる
・1823年(文政6年) 26歳の時、出島に来たオランダ商館長スチュルレルから近代洋式砲術を学ぶ
・1834年(天保5年) 私費で銃器等を揃え、高島流砲術を完成させる
・1834年(天保5年) 肥前佐賀藩武雄領主・鍋島茂義が入門する
・1835年(天保6年) 鍋島茂義に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上する
・1838年(天保9年) 長崎の大火で、大村町(現在の万才町)の高島邸が類焼する
・1840年(天保11年) アヘン戦争に触発され、『泰西火攻全書』を著わし、洋式砲術の振興を幕府に進言する
・1841年(天保12年5月9日) 武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なう
・1842年(天保13年) 長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行・伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となる
・1853年(嘉永6年) ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄する
・1855年(安政2年) 幕府の普請役に任ぜられる
・1856年(安政3年) 幕府の講武所砲術師範役、具足奉行格となる
・1857年(安政4年) 富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤める
・1864年(元治元年) 『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂する
・1866年(慶応2年1月14日) 数え年69歳で死去する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1691年(元禄4) | 江戸幕府が豪商・住友家に別子銅山の採掘を許可する(新暦6月5日) | 詳細 |
1862年(文久2) | 江戸幕府が派遣した文久遣欧使節により、ロンドン覚書が締結される(新暦6月6日) | 詳細 |
1876年(明治9) | 明治天皇行幸で東京の上野公園の開園式が行われる | 詳細 |
1904年(明治37) | 小説家武田麟太郎の誕生日 | 詳細 |
1906年(明治39) | 書家金子鷗亭の誕生日 | 詳細 |
1915年(大正4) | 中国・袁世凱政府が日本の「対華21ヶ条要求」を受諾 | 詳細 |
1942年(昭和17) | 「金属類回収令」に基づく閣令「回収物件の譲渡申込期間指定に関する件」が公布される | 詳細 |
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