
以仁王の令旨(もちひとおうのりょうじ)は、平安時代後期の1180年(治承4年4月9日)に、以仁王(後白河天皇の第三皇子)が発したとされる、平家追討のための命令文書です。全国各地に散らばる源氏の人々及び、平氏の専横政治を不満に思った大寺社に向け、平氏一門の討伐を命じたのものでした。
同年4月27日には、山伏姿の源行家が伊豆国の北条館を訪れ、源頼朝にこれを伝えたと言われています。原文は、『吾妻鏡』や『平家物語』に掲載されているものの、令旨としての形式に不備があり、史料によって文言に異同があるとされてきました。
以下に、『吾妻鏡』第一巻、治承4年(1180年)4月の条にあるものを掲載しておきますので、ご参照下さい。
同年4月27日には、山伏姿の源行家が伊豆国の北条館を訪れ、源頼朝にこれを伝えたと言われています。原文は、『吾妻鏡』や『平家物語』に掲載されているものの、令旨としての形式に不備があり、史料によって文言に異同があるとされてきました。
以下に、『吾妻鏡』第一巻、治承4年(1180年)4月の条にあるものを掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『吾妻鏡』第一巻 治承4年(1180年)4月の条
<原文>
治承四年(1180)四月小廿七日壬申。高倉宮令旨。今日到着于前武衛將軍伊豆國北條舘。八條院藏人行家所持來也。武衛裝束水干。先奉遥拝男山方之後。謹令披閲之給。侍中者。爲相觸甲斐信濃兩國源氏等則下向彼國。武衛爲前右衛門督信頼縁坐。去永暦元年三月十一日。配當國之後。歎而送二十年春秋。愁而積四八餘星霜也。而頃年之間。平相國禪閤恣管領天下。刑罸近臣。剩奉遷 仙洞於鳥羽之離宮。上皇御憤。顰惱 叡慮御。當于此時。令旨到來。仍欲擧義兵。寔惟天與取時至行謂歟。爰上総介平直方〔ツネ〕朝臣五代孫北條四郎時政主者。當國豪傑也。以武衛爲聟君。專顯無二忠節。因茲。最前招彼主。令披令旨給。
下 東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所
應早追討淸盛法師并從類叛逆輩事
右。前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣。奉
最勝王勅偁。淸盛法師并宗盛等以威勢起凶徒亡國家。惱乱百官万民。虜掠五畿七道。幽閉 皇院。流罪公臣。断命流身。沈淵込樓。盜財領國。奪官授軄。無功許賞。非罪配過。或召鈎於諸寺之高僧。禁獄於修學之僧徒。或給下於叡岳絹米。相具謀叛粮米。断百王之跡。切一人之頭。違逆 帝皇。破滅佛法。絶古代者也。干時天地悉悲。臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。尋天武天皇舊儀。追討 王位推取之輩。訪上宮太子古跡。打亡佛法破滅之類矣。唯非憑人力之搆。偏所仰天道之扶也。因之。如有 帝王三寶神明之冥感。何忽無四岳合力之志。然則源家之人。藤氏之人。兼三道諸國之間堪勇士者。同令与力追討。若於不同心者。准淸盛法師從類。可行死流追禁之罪過。若於有勝功者。先預諸國之使節。御即位之後。必随乞可賜勸賞也。諸國宣承知依宣行之。
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱
<読み下し文>
治承四年四月小廿七日壬申。高倉宮[1]の令旨[2]、今日前武衛[3]將軍の伊豆國の北條舘[4]于到着す。
八條院[5]の藏人行家持ち來る所也。
武衛水干[6]を裝束し、先ず男山[7]を遙拜し奉る之後、謹みて之を披閲令め給ふ。
侍中[8]者甲斐信濃の兩源氏等に相觸れん爲、則ち彼の國へ下向す。武衛は前右衛門督信頼[9]の縁座の爲、
去る永暦元年三月十一日、當國に配さる之後、歎き而二十年の春秋を送り、愁へ而四八餘の星霜を積む也。
而して、頃年之間、平相國禪閤[10]は恣に天下を管領し、近臣を刑罸し、剩へ仙洞於鳥羽之離宮[11]に遷し奉る。
上皇の御憤り頻に叡慮を惱まし御う。此の時于當り、令旨到來す。仍て義兵を擧げんと欲す。
寔惟天與を取る時に至り行ふと謂ん歟。
爰に上総介直方[12]朝臣の五代の孫、北條四郎時政[13]主者、當國の豪傑[14]也。武衛を以て婿君と爲し、
專ら無二の忠節を顯す。茲に因て、最前に彼の主を招き、令旨[2]を披か令め給ふ。
下す 東海、東山、北陸、三道諸國の源氏并びに群兵等の所へ
應えて早く清盛法師并びに從類叛逆の輩を追討の事。
右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず。
最勝王[15]の勅を奉りて偁う。清盛法師并びに宗盛等、威勢を以て兇徒を起す。國家を亡し、百官万民を惱乱す。
五畿七道を虜掠[16]し、皇院を幽閇し、公臣を流罪す。命を断ち、身を流す。
淵に沈め、樓に込め、財を盜り、國を領す。官を奪い軄を授け、巧無きに賞を許し、罪非に過を配す。
或いは諸寺之高僧於召し釣め、修學之僧徒於禁獄す。或いは叡岳の絹米於給ひ下し、謀叛の粮米を相具す。
百王[17]之跡を断ち、一人[18]之頭を切る。帝皇に違逆し、佛法を破滅し、古代を絶つ者也。
時于天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。
仍て吾一院の第二皇子と爲て、天武天皇の舊儀を尋ね、王位推取之輩を追討す。
上宮太子[19]の古跡を訪ね、佛法破滅之類を打ち亡ぼさん矣。唯人力之搆へを憑むに非、偏に天道之扶けを仰ぐ所也。
之に因て、如し帝王三寳神明之冥感有らば、何ぞ忽ち四岳合力之 志 無からんや。
然らば則ち、源家之人、藤氏之人、兼ては三道諸國之間、勇士に堪えら者、同じく与力し追討令め、
若し同心不に於て者、清盛法師の從類に准ひ、死流追禁之罪過に行ふ可し、若し勝功有るに於て者、
先ず諸國之使節に預かり、御即位之後、必ず乞いに随ひ勸賞を賜はる可き也。諸國承知して宣に依て之を行へ
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱[20]
【注釈】
[1]高倉宮:たかくらのみや=以仁王のこと。
[2]令旨:れいじ=皇太子などが出す命令、天皇が出すと宣旨、上皇は院宣。
[3]武衛:ぶえい=兵衛の唐名で、ここでは頼朝を差す。
[4]北条舘:ほうじょうやかた=現在の静岡県伊豆の国市韮山にあった。後の堀越公方も同じ地。
[5]八条院:はちじょういん=鳥羽天皇の娘で名は暲子(後白河の腹違いの妹)。母は美福門院、保元元年鳥羽上皇の遺領の大部分を伝領し、又母の遺領も伝領し、その所領(荘園)は二百四十箇所に及び、経済的にも政治的にも大きな勢力を有した。以仁王を猶子とし、挙兵を支援した。
[6]水干:すいかん=狩衣の変化したもので、水張りにして干した絹の服、下に袴を穿く。
[7]男山:おとこやま=京都府八幡市八幡高坊の岩清水八幡宮。
[8]侍中:じちゅう=蔵人の唐名。
[9]前右衛門督信頼:さきのうえもんのかみのぶより=平治の乱の首謀者。
[10]平相國禪閤:へいしょうこくぜんこう=平清盛のこと。
[11]鳥羽之離宮:とばのりきゅう=12世紀~14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。現在の京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近。
[12]上総介直方:かずさのすけなおつね=平直方。源氏山の麓の屋敷地現寿福寺を源頼義に譲った人。一般には「なおかた」と皆かなをふっている。
[13]北條四郎時政:ほうじょうのしろうときまさ=父が時家。頼朝の縁で本家のように見えるが、実は京都で彼の代官を務めた従兄弟の平六傔仗時定の方が本家らしい。(奥富説)
[14]當國の豪傑:とうごくのごうけつ=伊豆国の豪傑のことで、北条家の分家で小さな土豪に過ぎないので豪族と書けずに苦心惨憺の上で豪傑と書いた。
[15]最勝王:さいしょうおう=以仁王のこと。
[16]虜掠:りょりゃく=人をとらえ、財物や土地などをかすめとること。
[17]百王:ひゃくおう=天皇家。
[18]一人:いちにん=普通摂関家を指すが誰も切られていない。
[19]上宮太子:じょうぐうたいし=聖徳太子のこと。
[20]仲綱:なかつな=頼政の嫡子。
<現代語訳>
治承4年(1180年)4月小27日壬申。以仁王の令旨が今日、頼朝様のおられる伊豆の北条館に到着しました。八条院の蔵人である行家が持ってきたものです。
頼朝様は水干を着して、最初に、京都の石清水八幡宮の方角を遙拜した上で、謹んでこれを開封してご覧になりました。
行家は、甲斐国や信濃国の源氏に知らせるために、すぐにその国に向かいました。
頼朝様は藤原信頼の同罪として、永暦元年(1160年)3月11日に伊豆国へ流され、嘆きつつ20年の歳月を送り、愁いながら32歳(4×8)余を迎えました。
この年の間は、平清盛が好きなように天下を掌握していました。意に従わないない近臣に刑罰を科し、さらに後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉しました。上皇はお怒りで悩まれておられました。こんな時に当って、(以仁王の)令旨が到着しました。
この機に、正義の挙兵をしようとしました。これ、天から与えられた好機といえるかもしれません。ここに、平直方の五代の孫となる北条四郎時政殿は伊豆の豪傑であり、頼朝様を婿として、絶対の忠誠を尽くしています。従って、頼朝様は一番最初に時政殿を呼んで令旨を開封しました。
命令する。東海道、東山道、北陸道の三道にある諸国の源氏や群兵らに
早く平清盛とそれに従う一族の反逆の連中を追討すること
右のことは、源仲綱が以仁王の令旨を承って命じる
最勝王(以仁王)の令旨を受けて言います。平清盛と次男の宗盛は力に任せて武力行使をして、国家を亡ぼそうとして、多くの役人や万民を悩ましている。日本国中の財物や土地などをかすめとって、法皇を幽閉して、正義の役人を流罪にした。時に人を殺し、流罪にし、立ち上がれなくし、牢屋に入れ、財産を横領し、国司の権限を取り、官職を剥奪し、無理な義務を負わせ、手柄のない身内に賞を許し、反対派の者には無実の罪を着せた。反対する高徳の僧侶を監禁し、学者としての僧をも幽閉する。延暦寺へ納める絹や米を身内に配り、謀反人である味方の軍隊の食料にする。天皇家をつぶそうとしている。摂関家の首を切って、天皇家に反逆し、仏法を破滅し、聖徳太子以来の歴史を壊してしまう者である。これでは天下の全てが悲しんで、臣下も民も悲しんでいる。従って、私は後白河院の第二皇子として、壬申の乱で正しい皇統を継承した天武天皇の前歴を学び、天下を略奪した連中を追討する。聖徳太子の足跡を学び、佛法を破滅しようとするやつらを討ち滅ぼそう。ただ単に人間としての力を頼りにしているだけではなく、天道の助力があるものだ。天皇家や仏教、神道のご利益があれば、なんで四岳の力をあわせる志が無い訳があろうか。それでは源氏の人々、藤原氏の人々、また東海東山北陸の三道諸国の勇士としての名誉な名に湛えられる人は、同様に力を会わせ追討しろ。もし賛同しないものは、清盛とその仲間と同じように、死罪や流罪や追捕の罪にしてしまう。もし、手柄を立てた者には、まず国衙の役人に届けて、即位後は、必ず望みに合せて恩賞を与えるであろう。諸国の人々は、令旨に従い、行動を起こせ。
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣仲綱
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