
P.F.vonシーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)は、ドイツの医師・博物学者で、オランダ商館の医師として来日し、長崎に鳴滝塾を開設していますが、正式には、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold)と言います。1796年2月17日に、南ドイツのバイエルンのビュルツブルクにおいて、医師の家系で、父はヴュルツブルク大学医学部産婦人科教授ヨハン・ゲオルク・クリストフ・フォン・シーボルトの次男として生まれました。
1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられます。1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ました。
1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任します。まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入りました。
翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てます。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちました。
また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めます。帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けました。
その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日します。幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しました。
1歳余で父を亡くし、ハイディングスフェルに住む母方の叔父に育てられます。1810年にヴュルツブルクの高校に入学し、その後、ビュルツブルク大学で医学、植物学、動物学、地理学などを学び、1820年に学位を得ました。
1822年にオランダ領東インド会社付の医官となり、翌年にジャワに赴任します。まもなく、日本に任官することになり、1823年(文政6)にオランダ商館の医師として来日、長崎出島に入りました。
翌年に長崎郊外に学塾兼診療所「鳴滝(なるたき)塾」を開設、西洋医学および一般科学を教授して、高野長英、高良斎、伊東玄朴、戸塚静海、美馬順三、二宮敬作ら多くの門人を育てます。1826年(文政9)にオランダ商館長の江戸参府に随行して、1ヶ月余り江戸に滞在、その間に高橋景保、大槻玄沢、宇田川榕庵ら江戸の蘭学者と交流を持ちました。
また、日本の動植物を研究し、日本に関する研究資料も集めます。帰国に際し、国禁の日本地図や葵紋付き衣服などを持ち出そうとして発覚(シーボルト事件)し、処罰され、1829年(文政12)に国外追放処分を受けました。
その後、1858年(安政5)の「日蘭修好通商条約」の締結により、P.F.vonシーボルトの追放が解除となり、翌年にオランダ商事会社員として長男アレクサンダーを伴って再来日します。幕府の外交にも参与しましたが、1862年(文久2)に日本を去り、1866年10月18日に、ドイツのミュンヘンにおいて、70歳で病死しました。
<P.F.vonシーボルトの主要な日本関係の著作>
・『日本』 Nippon(1832~54年)
・『日本植物誌』 Flora Japonica(1835~70年)
・『日本動物誌』 Fauna Japonica(1833~50年)
・『江戸参府紀行』
〇徳川家斉(とくがわ いえなり)とは?
江戸幕府の第11代将軍です。江戸時代中期の1773年(安永2年10月5日)に、御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男(母は側室のお富の方)として生まれましたが、幼名は豊千代といいました。1781年(天明元)に、第10代将軍徳川家治の世嗣である徳川家基の急死後、家治の養子となり、将軍後継者として、江戸城西の丸に移ります。
翌年に天明の太飢饉が始まる中で元服し、家斉と名乗り、従二位権大納言に叙任されましたが、1783年(天明3年7月)には浅間山天明大噴火が起こりました。1786年(天明6)に家治が50歳で急死し、田沼意次が失脚した翌年に、第11代将軍として宣下されますが、天明の打ちこわしが起き、世情は騒然とします。
その中で、松平定信を老中筆頭として、寛政の改革が始まりました。1789年(寛政元)に棄捐令発布、翌年人足寄場を江戸石川島に設置、朱子学以外の学問を禁止(寛政異学の禁)など一連の改革が進められますが、思うようにはいかず、1793年(寛政5)に父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わりを告げます。
定信の罷免後は親政し、右大臣・左大臣・太政大臣となり、町人文化が成熟した、いわゆる文化文政時代を現出したものの、財政窮乏化、綱紀紊乱、士風の著しい退廃を招きました。また、1804年(文化元)にロシア使節レザノフが長崎に来航するなど外圧が強まる中、1825年(文政8)には、「異国船打払令」を出しています。
1833年(天保4)に天保の大飢饉が起き、1837年(天保8)に大坂で大塩平八郎の乱が起こる中で、次男・家慶に将軍職を譲り、大御所として幕政の実権は握りました。側室40人、子女55人を設けましたが、1841年(天保12年閏1月7日)に江戸城内において、数え年69歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
翌年に天明の太飢饉が始まる中で元服し、家斉と名乗り、従二位権大納言に叙任されましたが、1783年(天明3年7月)には浅間山天明大噴火が起こりました。1786年(天明6)に家治が50歳で急死し、田沼意次が失脚した翌年に、第11代将軍として宣下されますが、天明の打ちこわしが起き、世情は騒然とします。
その中で、松平定信を老中筆頭として、寛政の改革が始まりました。1789年(寛政元)に棄捐令発布、翌年人足寄場を江戸石川島に設置、朱子学以外の学問を禁止(寛政異学の禁)など一連の改革が進められますが、思うようにはいかず、1793年(寛政5)に父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わりを告げます。
定信の罷免後は親政し、右大臣・左大臣・太政大臣となり、町人文化が成熟した、いわゆる文化文政時代を現出したものの、財政窮乏化、綱紀紊乱、士風の著しい退廃を招きました。また、1804年(文化元)にロシア使節レザノフが長崎に来航するなど外圧が強まる中、1825年(文政8)には、「異国船打払令」を出しています。
1833年(天保4)に天保の大飢饉が起き、1837年(天保8)に大坂で大塩平八郎の乱が起こる中で、次男・家慶に将軍職を譲り、大御所として幕政の実権は握りました。側室40人、子女55人を設けましたが、1841年(天保12年閏1月7日)に江戸城内において、数え年69歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
850年(嘉祥3) | 第56代の天皇とされる清和天皇(源氏の祖)の誕生日(新暦5月10日) | 詳細 |
1356年(正平11/延文元) | 二條良基が日本初の連歌選集『菟玖波集』を編纂し、序文が書かれる(新暦4月26日) | 詳細 |
1906年(明治39) | 島崎藤村が長篇小説『破戒』を「緑陰叢書」第1篇として自費出版し、自然主義文学の出発点となる | 詳細 |
1919年(大正8) | 建築家・工学博士で、「日本近代建築の父」と呼ばれた辰野金吾の命日 | 詳細 |
1928年(昭和3) | 全日本無産者芸術連盟(ナップ)が結成される | 詳細 |
1939年(昭和14) | 「軍用資源秘密保護法」が公布(施行は同年6月26日)される | 詳細 |
2005年(平成17) | 愛知県において、2005年日本国際博覧会(愛・地球博)が開幕する | 詳細 |
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