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 今日は、明治時代後期の1895年(明治28)に、日清戦争講和のために、下関の料亭春帆楼で日清講和会議が始まった日です。
 日清講和会議(にっしんこうわかいぎ)は、朝鮮半島の権益をめぐって対立していた日本と清国の間で1894年(明治27)勃発した日清戦争の講和のために、日本の下関で開催された会議です。1895年(明治28)3月19日に、清国の講和使節団を乗せた汽船が関門海峡の沖合に停泊し、翌日から下関の料亭春帆楼で日清講和会議が開催されました。
 日本側の全権は伊藤博文、陸奥宗光で、清国側の全権は李鴻章で、両国の代表11名が出席し、講和に向けて、会議は7回に渡って行われ、4月17日に「下関条約」(日進講和条約)が調印されます。講和条約において、清国は日本に朝鮮半島の独立承認・領土(遼東半島・台湾・澎湖諸島等)の割譲・賠償金2億両の支払いなどを約束しました。
 しかし、遼東半島は、同年4月のロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって清国に返還されることになります。

〇日清戦争(にっしんせんそう)とは?

 明治時代中頃の1894年(明治27)夏~1895年(明治28)4月17日まで、日本と清国の間で、朝鮮支配をめぐって行われた戦争です。1894年(明治27)1月上旬に、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し、大規模な農民反乱が勃発し、これに手を焼いた朝鮮政府は、6月に農民反乱鎮圧のため清国に援兵を依頼しました。
 この状況下で、日本は日清間で結ばれた「天津条約」に基づき、これに対抗して出兵します。これを危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めました。
 しかし、日本は朝鮮内政改革の単独決行を宣言し、清国政府に最初の絶交書を送る一方で、イギリスとの条約改正(日英通商航海条約)に成功して同国の援助を期待し得る状況をつくります。その上で、清国との開戦を閣議決定し、ソウルの王宮を占領して親日派の大院君政権をつくりました。
 これによって、清国との関係は険悪化し、7月25日に仁川南西方、豊島西南沖で、日本の連合艦隊は清国軍艦および輸送船団と遭遇、相互に砲火を浴びせかけ、陸上でも朝鮮の成歓、牙山を占領し、実質的な開戦へと至ります。8月1日には、「日清戦争宣戦の詔書」が発せられて、正式に宣戦が布告され、陸軍は9月に平壌、11月に遼東半島を占領、海軍も9月には黄海海戦に勝って制海権を握りました。
 翌年2月には威海衛軍港陸岸を占領し、清国の北洋艦隊を降伏させ、3月に入ると牛荘、営口、澎湖列島を占領します。この中で、列国の講和勧告が相次ぎ、朝鮮でも抗日反乱が再起、清国からの講和打診もあって、3月下旬から下関で清国全権李鴻章と日本全権伊藤博文、陸奥宗光との間で講和会議が開始されました。
 4月17日には、「下関条約(日清講和条約)」に調印しましたが、①清国が朝鮮の独立を承認すること、②遼東半島、台湾、澎湖島を清国から分割、日本の領土とすること、③清国は賠償金2億両(テール)(約3億円)を支払うこと、④沙市、重慶、蘇州、杭州を開市・開港するほか、欧米諸国が清国にもっている通商上の特権を日本にも認めることなどが取り決められています。しかし、この6日後にロシア、ドイツ、フランスからいわゆる三国干渉を受け、5月4日には、日本政府は遼東半島放棄を決定し、還付の代償として清国より庫平銀3000万両を得ることとなりました。
 これによって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東での覇権を争うようになったとされますが、死者1万7,000人、戦費約2億円にのぼっています。

〇「下関条約(しものせきじょうやく)」とは?

 日清戦争で日本が清国に勝利したことにより、山口県赤間関市(現在の下関市)の春帆楼での講和会議を経て、調印された条約で、調印者は、日本側全権が伊藤博文・陸奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方でした。正式名称は「日清講和条約」で、馬関条約とも言われましたが、同年の5月8日に批准書が交換されて発効しています。
 その内容は、前文と11ヶ条がらなり、(1)朝鮮の独立承認、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、(3)軍費賠償金2億両[テール](日本円で約3億円)の支払い、(4)沙市・重慶・蘇州・杭州の開市と開市・開港地における製造業従事権の承認、(5)揚子江航行権を与えること、(6)欧米諸国が中国にもつ通商上の特権(日本の治外法権、片務的協定関税率)を日本に認める新条約の締結などとなっていました。尚、調印直後にロシア、ドイツ、フランスのいわゆる三国干渉がなされ、日本は遼東半島を清国に還付しましたが、その代償として3,000万両[テール]を得ています。
 この条約で得た賠償金2億両[テール]と遼東還付金の3,000万両[テール]は、軍備と工業化の資金となり、また金本位制度に移行する資金ともなりました。
 以下に、「下関条約」(日清講和条約)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

☆「下関条約」(日清講和条約) 1895年(明治28)4月17日調印、5月8日批准書交換

日清媾和條約

明治二八年(一八九五年)四月一七日下關ニ於テ調印
明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ハ兩國及其ノ臣民ニ平和ノ幸福ヲ回復シ且將來紛議ノ端ヲ除クコトヲ欲シ媾和條約ヲ訂結スル爲メニ大日本國皇帝陛下ハ内閣總理大臣從二位勲一等伯爵伊藤博文外務大臣從二位勲一等子爵陸奧宗光ヲ大清國皇帝陛下ハ太子太傅文華殿大學士北洋大臣直隷總督一等肅毅伯李鴻章二品頂戴前出使大臣李經方ヲ各其ノ全權大臣ニ任命セリ因テ各全權大臣ハ互ニ其ノ委任状ヲ示シ其ノ良好妥當ナルヲ認メ以テ左ノ諸條款ヲ協議決定セリ

第一條 清國ハ朝鮮國ノ完全無缼ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ清國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

第二條 清國ハ左記ノ土地ノ主權竝ニ該地方ニ在ル城塁、兵器製造所及官有物ヲ永遠日本國ニ割與ス
 一 左ノ經界内ニ在ル奉天省南部ノ地
鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城、海城、營口ニ亙リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ
遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼
 二 臺灣全島及其ノ附屬諸島嶼
 三 澎湖列島即英國「グリーンウィチ」東經百十九度乃至百二十度及北緯二十三度乃至二十四度ノ間ニ在ル諸島嶼

第三條 前條ニ掲載シ附屬地圖ニ示ス所ノ經界線ハ本約批准交換後直チニ日清兩國ヨリ各二名以上ノ境界共同劃定委員ヲ任命シ實地ニ就テ確定スル所アルヘキモノトス而シテ若本約ニ掲記スル所ノ境界ニシテ地形上又ハ施政上ノ點ニ付完全ナラサルニ於テハ該境界劃定委員ハ之ヲ更正スルコトニ任スヘシ
該境界劃定委員ハ成ルヘク速ニ其ノ任務ニ從事シ其ノ任命後一箇年以内ニ之ヲ終了スヘシ
但シ該境界劃定委員ニ於テ更定スル所アルニ當リテ其ノ更定シタル所ニ對シ日清兩國政府ニ於テ可認スル迄ハ本約ニ掲記スル所ノ經界ヲ維持スヘシ

第四條 清國ハ軍費賠償金トシテ庫平銀二億兩ヲ日本國ニ支拂フヘキコトヲ約ス右金額ハ都合八回ニ分チ初回及次回ニハ毎回五千萬兩ヲ支拂フヘシ而シテ初回ノ拂込ハ本約批准交換後六箇月以内ニ次回ノ拂込ハ本約批准交換後十二箇月以内ニ於テスヘシ殘リノ金額ハ六箇年賦ニ分チ其ノ第一次ハ本約批准交換後二箇年以内ニ其ノ第二次ハ本約批准交換後三箇年以内ニ其ノ第三次ハ本約批准交換後四箇年以内ニ其ノ第四次ハ本約批准交換後五箇年以内ニ其ノ第五次ハ本約批准交換後六箇年以内ニ其ノ第六次ハ本約批准交換後七箇年以内ニ支拂フヘシ又初回拂込ノ期日ヨリ以後未タ拂込ヲ了ラサル額ニ對シテハ毎年百分ノ五ノ利子ヲ支拂フヘキモノトス但シ清國ハ何時タリトモ該賠償金ノ全額或ハ其ノ幾分ヲ前以テ一時ニ支拂フコトヲ得ヘシ如シ本約批准交換後三箇年以内ニ該賠償金ノ總額ヲ皆濟スルトキハ總テ利子ヲ免除スヘシ若夫迄ニ二箇年半若ハ更ニ短期ノ利子ヲ拂込ミタルモノアルトキハ之ヲ元金ニ編入スヘシ

第五條 日本國ヘ割興セラレタル地方ノ住民ニシテ右割與セラレタル地方ノ外ニ住居セムト欲スルモノハ自由ニ其ノ所有不動産ヲ賣却シテ退去スルコトヲ得ヘシ其ノ爲メ本約批准交換ノ日ヨリ二箇年間ヲ猶豫スヘシ但シ右年限ノ滿チタルトキハ未タ該地方ヲ去ラサル住民ヲ日本國ノ都合ニ因リ日本國臣民ト視爲スコトアルヘシ
日清兩國政府ハ本約批准交換後直チニ各一名以上ノ委員ヲ臺灣省ヘ派遣シ該省ノ受渡ヲ爲スヘシ而シテ本約批准交換後二箇月以内ニ右受渡ヲ完了スヘシ

第六條 日清兩國間ノ一切ノ條約ハ交戰ノ爲メ消滅シタレハ清國ハ本約批准交換ノ後速ニ全權委員ヲ任命シ日本國全權委員ト通商航海條約及陸路交通貿易ニ關スル約定ヲ締結スヘキコトヲ約ス而シテ現ニ清國ト歐洲各國トノ間ニ存在スル諸條約章程ヲ以テ該日清兩國間諸條約ノ基礎ト爲スヘシ又本約批准交換ノ日ヨリ該諸條約ノ實施ニ至ル迄ハ清國ハ日本國政府官吏商業航海陸路交通貿易工業船舶及臣民ニ對シ總テ最惠國待遇ヲ與フヘシ清國ハ右ノ外左ノ讓與ヲ爲シ而シテ該讓與ハ本約調印ノ日ヨリ六箇月ノ後有效ノモノトス
 第一 清國ニ於テ現ニ各外國ニ向テ開キ居ル所ノ各市港ノ外ニ日本國臣民ノ商業住居工業及製造業ノ爲メニ左ノ市港ヲ開クヘシ但シ現ニ清國ノ開市場開港場ニ行ハルル所ト同一ノ條件ニ於テ同一ノ特典及便益ヲ享有スヘキモノトス
  一 湖北省荊州府沙市
  二 四川省重慶府
  三 江蘇省蘇州府
  四 浙江省杭州府
  日本國政府ハ以上列記スル所ノ市港中何レノ處ニモ領事官ヲ置クノ權利アルモノトス
 第二 旅客及貨物運送ノ爲メ日本國汽船ノ航路ヲ左記ノ場所ニ迄擴張スヘシ
  一 揚子江上流湖北省宜昌ヨリ四川省重慶ニ至ル
  二 上海ヨリ呉淞江及運河ニ入リ蘇州杭州ニ至ル
  日清兩國ニ於テ新章程ヲ妥定スル迄ハ前記航路ニ關シ適用シ得ヘキ限ハ外國船舶清國内地水路航行ニ關スル現行章程ヲ施行スヘシ
 第三 日本國臣民カ清國内地ニ於テ貨品及生産物ヲ購買シ又ハ其ノ輸入シタル商品ヲ清國内地ヘ運送スルニハ右購買品又ハ運送品ヲ倉入スル爲メ何等ノ税金取立金ヲモ納ムルコトナク一時倉庫ヲ借入ルルノ權利ヲ有スヘシ
 第四 日本國臣民ハ清國各開市場開港場ニ於テ自由ニ各種ノ製造業ニ從事スルコトヲ得ヘク又所定ノ輸入税ヲ拂フノミニテ自由ニ各種ノ器械類ヲ清國ヘ輸入スルコトヲ得ヘシ
  清國ニ於ケル日本國臣民ノ製造ニ係ル一切ノ貨品ハ各種ノ内國運送税内地賦課金取立金ニ關シ又清國内地ニ於ケル倉入上ノ便益ニ關シ日本國臣民カ清國ヘ輸入シタル商品ト同一ノ取扱ヲ受ケ且同一ノ特典免除ヲ享有スヘキモノトス
  此等ノ讓與ニ關シ更ニ章程ヲ規定スルコトヲ要スル場合ニハ之ヲ本條ニ規定スル所ノ通商航海條約中ニ具載スヘキモノトス

第七條 現ニ清國版圖内ニ在ル日本國軍隊ノ撤回ハ本約批准交換後三箇月内ニ於テスヘシ但シ次條ニ載スル所ノ規定ニ從フヘキモノトス

第八條 清國ハ本約ノ規定ヲ誠實ニ施行スヘキ擔保トシテ日本國軍隊ノ一時山東省威海衛ヲ占領スルコトヲ承諾ス而シテ本約ニ規定シタル軍費賠償金ノ初回次回ノ拂込ヲ了リ通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル時ニ當リテ清國政府ニテ右賠償金ノ殘額ノ元利ニ對シ充分適當ナル取極ヲ立テ清國海關税ヲ以テ抵當ト爲スコトヲ承諾スルニ於テハ日本國ハ其ノ軍隊ヲ前記ノ場處ヨリ撤回スヘシ若又之ニ關シ充分適當ナル取極立タサル場合ニハ該賠償金ノ最終回ノ拂込ヲ了リタル時ニ非サレハ撤回セサルヘシ尤通商航海條約ノ批准交換ヲ了リタル後ニ非サレハ軍隊ノ撤回ヲ行ハサルモノト承知スヘシ

第九條 本約批准交換ノ上ハ直チニ其ノ時現ニ有ル所ノ俘虜ヲ還附スヘシ而シテ清國ハ日本國ヨリ斯ク還附セラレタル所ノ俘虜ヲ虐待若ハ處刑セサルヘキコトヲ約ス
日本國臣民ニシテ軍事上ノ間諜若ハ犯罪者ト認メラレタルモノハ清國ニ於テ直チニ解放スヘキコトヲ約シ清國ハ又交戰中日本國軍隊ト種々ノ關係ヲ有シタル清國臣民ニ對シ如何ナル處刑ヲモ爲サス又之ヲ爲サシメサルコトヲ約ス

第十條 本約批准交換ノ日ヨリ攻戰ヲ止息スヘシ

第十一條 本約ハ大日本國皇帝陛下及大清國皇帝陛下ニ於テ批准セラルヘク而シテ右批准ハ芝罘ニ於テ明治二十八年五月八日即光緒二十一年四月十四日ニ交換セラルヘシ

 右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ茲ニ記名調印スルモノナリ

 明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印 
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋大臣
直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

(註)附屬地圖ハ之ヲ略ス

議定書

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關ニ於テ署名
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布
大日本國皇帝陛下ノ政府及大清國皇帝陛下ノ政府ハ本日調印シタル媾和條約中ノ意義ニ付將來誤解ヲ生スルコトヲ避ケムト欲スル目的ヲ以テ雙方ノ全權大臣ハ左ノ約定ニ同意セリ
第一、本日調印セシ媾和條約ニ附スル所ノ英譯文ハ該條約ノ日本文本文及漢文本文ト同一ノ意義ヲ有スルモノタル事ヲ約ス
第二、若該條約ノ日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニシタルトキハ前記英譯文ニ依テ決裁スヘキコトヲ約ス
第三、左ニ記名スル所ノ全權大臣ハ本議定書ハ本日調印シタル媾和條約ト同時ニ各兩帝國政府ニ提供シ而シテ該條約批准セラルルトキハ本議定書ニ掲載スル所ノ諸約定モ別ニ正式ノ批准ヲ要セスシテ亦兩帝國政府ノ可認セシモノト看做スヘキコトヲ約ス
右證據トシテ兩帝國全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ
明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋
大臣直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

別約

明治二八年(一八九五年)四月一七日下ノ關二於テ調印
明治二八年(一八九五年)四月二〇日批准
明治二八年(一八九五年)五月八日芝罘ニ於テ批准書交換
明治二八年(一八九五年)五月一三日公布

第一條 本日調印シタル媾和條約第八條ノ規定ニ依リテ一時威海衛ヲ占領スヘキ日本國軍隊ハ一旅團ヲ超過セサルヘシ而シテ該條約批准交換ノ日ヨリ清國ハ毎年右一時占領ニ關スル費用ノ四分ノ一庫平銀五十萬兩ヲ支拂フヘシ

第二條 威海衛ニ於ケル一時占領地ハ劉公嶋及威海衛灣ノ全沿岸ヨリ日本里數五里ヲ以テ其ノ區域ト爲スヘシ
右一時占領地ノ經界線ヲ距ルコト日本里數五里ノ地内ニ在リテハ何レノ所タリトモ清國軍隊ノ之ニ近ツキ若ハ之ヲ占領スルコトヲ許ササルヘシ

第三條 一時占領地ノ行政事務ハ仍ホ清國官吏ノ管理ニ歸スルモノトス但シ清國官吏ハ常ニ日本國占領軍司令官カ其ノ軍隊ノ健康安全紀律ニ關シ又ハ之カ維持配置上ニ付必要ト認メ發スル所ノ命令ニ服從スヘキ義務アルモノトス
一時占領地内ニ於テ犯シタル一切ノ軍事上ノ罪科ハ日本國軍務官ノ裁判管轄ニ屬スルモノトス
此ノ別約ハ本日調印シタル媾和條約中ニ悉ク記入シタルト同一效力ヲ有スルモノトス
右證據トシテ兩帝国全權大臣ハ之ニ記名調印スルモノナリ

明治二十八年四月十七日即光緒二十一年三月二十三日下ノ關ニ於テ二通ヲ作ル

大日本帝國全權辨理大臣
内閣總理大臣從二位勲一等伯爵
伊藤博文 (記名) 印
大日本帝國全權辨理大臣
外務大臣從二位勲一等子爵
陸奧宗光 (記名) 印
大清帝國欽差頭等全權大臣
太子太傅文華殿大學士北洋
大臣直隷總督一等肅毅伯
李鴻章 (記名) 印
大清帝國欽差全權大臣
二品頂戴前出使大臣
李經方 (記名) 印

  外務省編「日本外交年表竝主要文書」上巻より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)上野公園に博物館(現在の東京国立博物館)が開館する詳細
上野公園に博物館附属動物園(上野動物園)が開館する詳細
1883年(明治16)自由民権運動への弾圧となる高田事件(新潟県)が起こる詳細
1906年(明治38)上野公園内に帝国図書館の新館庁舎(現:国際子ども図書館)が竣工、移転し、開館式が挙行される詳細
1914年(大正3)東京の上野公園等で「東京大正博覧会」が開幕する詳細
1935年(昭和10)日本画家速水御舟の命日詳細
1956年(昭和31)秋田県で第二次能代大火が起き、市街の三分の一となる1,475棟を焼失する詳細