
平治の乱(へいじのらん)は、平安時代後期の1160年1月19日(平治元年12月9日)に、後白河院政開始後の藤原通憲 (信西) の専横に対して不満をもった藤原信頼、源義朝が起した内乱です。1156年(保元元)の保元の乱後、これに勝利した後白河天皇は、1158年(保元3)に退位して院政を開始しましたが、院近臣や武士の間で権力争いが激化していきました。
藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきます。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇の幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展しました。
熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功します。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗しました。
その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されます。翌年3月11日に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えました。
しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきます。
藤原通憲(信西)と藤原信頼とが反目し、通憲は平清盛と信頼は源義朝と結んで、源平武士団の対立に結びついていきます。1160年(平治元)に清盛が熊野詣でに出かけて、京都を留守にした間隙を狙い、同年12月9日(1160年1月19日)に、藤原信頼・源義朝が院御所・三条殿を襲撃し、後白河上皇の幽閉、藤原通憲(信西)の殺害という事件に発展しました。
熊野詣での途中から清盛は、紀伊の武士湯浅宗重や熊野別当湛快らの支援を得て急遽京都に引き返し、信頼に臣従するふりをして天皇と上皇を脱出させることに成功します。同年12月26日に、源平両軍は京都の六条河原などで戦ったものの、源光保・頼政らの寝返りもあって、義朝は孤立して大敗しました。
その結果、信頼は捕らえられて殺害され、東国に逃れようとした義朝も同年12月29日に、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致の裏切りにあって謀殺されます。翌年3月11日に義朝の子頼朝なども伊豆等へ流されて、源氏は一時衰退し、1167年(仁安2)には、平清盛が太政大臣に就任して、平氏の全盛期を迎えました。
しかし、源平の対立は継続し、のちの源平合戦へと発展していきます。
〇源平合戦(げんぺいかっせん)とは?
平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。
有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。
同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。
有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。
☆源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)
<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される
<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原などで戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で家人長田忠致に謀殺される
<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される
<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する
<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される
<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる
<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する
<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる
<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
<養和元年(1181年)>
・閏2月4日 平清盛が病没する
<寿永2年(1183年)>
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲が平氏を破る
・7月28日 木曽義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
<寿永3年/元暦元年(1184年)>
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が木曽義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する
<元暦2年/文治元年(1185年)>
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義經追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)
<文治3年(1187年)>
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
☆源頼朝(みなもと の よりとも)とは?
武家政治を本格的に始めた鎌倉幕府の初代将軍です。1147年(久安3)に、平安時代後期の武将であった父源義朝、母熱田大宮司季範の娘の三男として生まれました。
1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。
1159年(平治元)の平治の乱に敗れて、父は殺され、翌年に伊豆国に流されることになり、配流先で1177年(治承元)に、北条政子と結婚します。1180年(治承4)の以仁王の平氏討伐の令旨を受けて挙兵しましたが、石橋山の戦いに敗れて海路安房国に逃げのびました。
しかし、坂東武士をまとめて勢力を伸ばし、鎌倉を本拠として平氏と対抗することになります。同年に、富士川の戦いで平氏軍を破り、弟たち(範頼、義経)を代官として源義仲や平氏と戦いを続けます。1184年(寿永3)に、宇治川の戦いで義経が源義仲を討ち、翌年壇ノ浦の戦いで平氏を滅亡させました。
戦功のあった弟の義経を追放の後、その追討を名目に守護・地頭設置の許可を得て武家政権の基礎を固め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定します。1190年(建久元)に上京して権大納言、右近衛大将に任じられ、翌々年には、征夷大将軍となり、後に鎌倉幕府と呼ばれるようになりました。
その後数年間は、範頼が伊豆に流されたり、大庭景義が鎌倉を追われるなど、幕府内での深刻な権力闘争が続きます。そんな中で、1199年(建久10)1月13日に、相模国での落馬が原因で、51歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1582年(天正10) | 織田信長・徳川家康連合軍に敗れた武田勝頼が自害し甲斐武田家が滅亡(新暦4月3日) | 詳細 |
1643年(寛永20) | 江戸幕府が「田畑永代売買禁止令」を発布する(新暦4月29日) | 詳細 |
1834年(天保5) | 福井藩士・幕末の志士・思想家橋下佐内の誕生日(新暦4月19日) | 詳細 |
1901年(明治33) | 国木田独歩の初の作品集『武蔵野』が民友社から刊行される | 詳細 |
1903年(明治36) | 小説家・随筆家・登山家深田久弥の誕生日 | 詳細 |
2010年(平成22) | 農林水産省により「ため池百選」が選定される | 詳細 |
2011年(平成23) | 東北地方太平洋沖地震が発生し、激しい揺れと大津波によって、東日本大震災と称される大被害を出す | 詳細 |
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