
市川崑(いちかわ こん)は、大正時代の1915年(大正4)11月20日に、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)において、呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれましたが、幼名は儀一(ぎいち)と言いました。父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳の時に大阪に移住し、大阪市立市岡商業を病気中退しています。
1933年(昭和8)に京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事、1937年(昭和12)にJOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になりました。1944年(昭和19)と翌年に2度召集令状が来ましたが、身体検査で引っかかり、入隊はしていません。
大平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)に20分ほどの短編人形劇である『娘道成寺』を東宝第三撮影所で作り上げました。1947年(昭和22)に第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督し、1948年(昭和23)に、新東宝の長編「花ひらく」で監督デビューを果たしています。
1951年(昭和26)に東宝へ、1956年(昭和31)に日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞しました。1959年(昭和34)に「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞、翌年(昭和35)に「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞、翌々年に「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞しています。
1962年(昭和37)に「私は二歳」でアジア映画祭監督賞、1965年(昭和40)に「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞しました。1969年(昭和44)に黒澤明、木下惠介、小林正樹と共に「四騎の会」を結成、1972年(昭和47)に時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博し、翌年には、ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導きます。
1982年(昭和57)に紫綬褒章を受章、1983年(昭和58)に「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞、1984年(昭和59)には、「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞しました。1988年(昭和63)に勲四等旭日小綬章を受章、1994年(平成6)に「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となり、2000年(平成12)には、ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞しています。
2001年(平成13)にモントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞、2007年(平成19)には、東京国際映画祭黒澤明賞を受賞しました。戦後の日本映画の隆盛を担った名監督の一人とされましたが、2008年(平成20年)2月13日に、東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈されています。
1933年(昭和8)に京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事、1937年(昭和12)にJOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になりました。1944年(昭和19)と翌年に2度召集令状が来ましたが、身体検査で引っかかり、入隊はしていません。
大平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)に20分ほどの短編人形劇である『娘道成寺』を東宝第三撮影所で作り上げました。1947年(昭和22)に第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督し、1948年(昭和23)に、新東宝の長編「花ひらく」で監督デビューを果たしています。
1951年(昭和26)に東宝へ、1956年(昭和31)に日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞しました。1959年(昭和34)に「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞、翌年(昭和35)に「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞、翌々年に「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞しています。
1962年(昭和37)に「私は二歳」でアジア映画祭監督賞、1965年(昭和40)に「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞しました。1969年(昭和44)に黒澤明、木下惠介、小林正樹と共に「四騎の会」を結成、1972年(昭和47)に時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博し、翌年には、ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導きます。
1982年(昭和57)に紫綬褒章を受章、1983年(昭和58)に「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞、1984年(昭和59)には、「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞しました。1988年(昭和63)に勲四等旭日小綬章を受章、1994年(平成6)に「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となり、2000年(平成12)には、ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞しています。
2001年(平成13)にモントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞、2007年(平成19)には、東京国際映画祭黒澤明賞を受賞しました。戦後の日本映画の隆盛を担った名監督の一人とされましたが、2008年(平成20年)2月13日に、東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈されています。
〇市川崑監督作品一覧
・「花ひらく」(1948)
・「三百六十五夜 東京篇・大阪篇」(1948年)
・「人間模様」(1949年)
・「果てしなき情熱」(1949年)
・「銀座三四郎」(1950年)
・「熱泥池」(1950年)
・「暁の追跡」(1950年)
・「夜来香」(1951年)
・「恋人」(1951年)
・「無国籍者(1951年)
・「盗まれた恋」(1951年)
・「ブンガワンソロ」(1951年)
・「結婚行進曲」(1951年)
・「ラッキーさん」(1952年)
・「若い人」(1952年)
・「足にさわった女」(1952年)
・「あの手この手」(1952年)
・「プーサン」(1953年)
・「青色革命」(1953年)
・「天晴れ一番手柄 青春銭形平次」(1953年)
・「愛人」(1953年)
・「わたしの凡(すべ)てを」(1954年)
・「億万長者」(1954年)
・「女性に関する十二章」(1954年)
・「青春怪談」(1955年)
・「こころ」(1955年)
・「ビルマの竪琴」(1956年)
・「処刑の部屋」(1956年)
・「日本橋」(1956年)
・「満員電車」(1957年)
・「東北の神武たち」(1957年)
・「穴」(1957年)
・「炎上」(1958年)
・「あなたと私の合言葉 さようなら、今日は」(1959年)
・「鍵」(1959年)
・「野火」(1959年)
・「女経~第二話「物を高く売りつける女」」[増村保造、吉村公三郎とのオムニバス](1960年)
・「ぼんち」(1960年)
・「おとうと」(1960年)
・「黒い十人の女」(1961年)
・「破戒」(1962年)
・「私は二歳」(1962年)
・「雪之丞変化」(1963年)
・「太平洋ひとりぼっち」(1963年)
・「ど根性物語 銭の踊り」(1964年)
・「東京オリンピック」(1965年)
・「トッポ・ジージョのボタン戦争」(1967年)
・「京」(1967年)
・「青春」(1968年)
・「愛ふたたび」(1971年)
・「股旅」(1973年)
・「時よとまれ 君は美しい ミュンヘンの17日~「最も速く」」(1973年)
・「吾輩は猫である」(1975年)
・「妻と女の間」[豊田四郎との共同監督](1976年)
・「犬神家の一族」(1976年)
・「悪魔の手毬唄」(1977年)
・「獄門島」(1977年)
・「女王蜂」(1978年)
・「火の鳥」(1978年)
・「病院坂の首縊(くく)りの家」(1979年)
・「古都」(1980年)
・「幸福」(1981年)
・「長江」(1981年)
・「細雪」(1983年)
・「おはん」(1984年)
・「ビルマの竪琴」(1985年)
・「子猫物語」(1986年)
・「鹿鳴館」(1986年)
・「映画女優」(1987年)
・「竹取物語」(1987年)
・「つる 鶴」(1988年)
・「天河伝説殺人事件」(1991年)
・「帰って来た木枯し紋次郎」(1993年)
・「その木戸を通って」(1993年)
・「四十七人の刺客」(1994年)
・「八つ墓村」(1996年)
・「新撰組」(2000年)
・「どら平太」(2000年)
・「かあちゃん」(2001年)
・「ユメ十夜 第二夜」(2006年)
・「犬神家の一族」(2006年)
☆市川崑関係略年表
・1915年(大正4)11月20日 三重県宇治山田市(現在の伊勢市)において、呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれる
・1933年(昭和8) 京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事する
・1937年(昭和12) JOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になる
・1947年(昭和22) 第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督する
・1948年(昭和23) 新東宝の「花ひらく」で長編監督デビューを果たす
・1951年(昭和26) 東宝へ移籍する
・1956年(昭和31) 日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞する
・1959年(昭和34) 「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞を受賞する
・1960年(昭和35) 「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞する
・1961年(昭和36) 「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞する
・1962年(昭和37) 「私は二歳」でアジア映画祭監督賞を受賞する
・1965年(昭和40) 「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞する
・1969年(昭和44) 黒澤明、木下惠介、小林正樹とともに「四騎の会」を結成する
・1972年(昭和47) 時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博する
・1973年(昭和48) ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導く
・1982年(昭和57) 紫綬褒章を受章する
・1983年(昭和58) 「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞する
・1988年(昭和63) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1994年(平成6) 「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となる
・2000年(平成12) ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞する
・2001年(平成13) モントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞を受賞する
・2007年(平成19) 東京国際映画祭黒澤明賞を受賞する
・2008年(平成20年)2月13日 東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
797年(延暦16) | 六国史二番目の『続日本紀』が完成・奏上される(新暦3月15日) | 詳細 |
807年(大同2) | 斎部広成撰の『古語拾遺』が平城天皇に献上される(新暦3月25日) | 詳細 |
1875年(明治8) | 「平民苗字必称義務令」が出され国民に姓を名乗ることを義務附ける(苗字制定記念日) | 詳細 |
1900年(明治33) | 足尾鉱毒事件被害民二千余名が請願のため上京する途中、警官隊・憲兵と衝突した川俣事件が起きる | 詳細 |
1946年(昭和21) | 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「改正憲法草案(マッカーサー草案)」を日本側に手交する | 詳細 |
1989年(平成元) | リクルート事件で、東京地検特捜部がリクルート前会長江副浩正ら4人を逮捕する | 詳細 |
2006年(平成18) | 財団法人日本城郭協会が「日本100名城」を発表する | 詳細 |
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