
二瀬炭鉱ガス爆発事故(ふたせたんこうがすばくはつじこ)は、大正時代の1913年(大正3)2月6日午前2時10分頃に、八幡製鉄所所属の二瀬炭鉱(現在の福岡県飯塚市)中央竪抗潤野坑道分岐点で発生したガス爆発事故です。事故当時、114人ほどが入坑していたとみられますが、助かったのは13人のみで、残りの101人が死亡、負傷者7人とされてきました。
死者・負傷者の出身県は、県内のほか九州の熊本県、佐賀県、大分県が多く、他に中国・四国地方から出稼ぎに来ている20~30代の人が多く、特に若い女性が2割ほど占めていて、中には遠く大阪、兵庫など近畿地方の人も数人おり、中でも朝鮮半島出身者が混じっていたとされます。この炭鉱では、1903年(明治36)1月にも、ガス爆発事故が発生して死者64人を出していました。
死者・負傷者の出身県は、県内のほか九州の熊本県、佐賀県、大分県が多く、他に中国・四国地方から出稼ぎに来ている20~30代の人が多く、特に若い女性が2割ほど占めていて、中には遠く大阪、兵庫など近畿地方の人も数人おり、中でも朝鮮半島出身者が混じっていたとされます。この炭鉱では、1903年(明治36)1月にも、ガス爆発事故が発生して死者64人を出していました。
〇二瀬炭鉱(ふたせたんこう)とは?
現在の福岡県飯塚市中(なか)・伊岐須(いぎす)・潤野(うるの)および嘉穂(かほ)郡穂波(ほなみ)町・稲築(いなつき)町にあった炭鉱で、高雄(現在の飯塚市伊岐須・中・幸袋付近)、潤野、中央(現在の穂波町枝国)、稲築(現在の稲築町漆生)の四坑を総称したものです。炭質は粘結性で、発熱量は60,017,500カロリーと良質炭と劣質炭との差が大きく、製鉄所原料炭および汽缶用炭として用いられました。
明治時代前期の1874年(明治7)に松本潜が穂波郡相田村で相田炭鉱を経営したのにはじまり、1878~79年(明治11~12年)頃には、福岡県令渡辺清が、官営三池炭鉱技師ポッターを招いて鞍手・嘉麻両郡の地質を調査させた折、松本潜・安川敬一郎兄弟はポッターに相田炭鉱の調査を依頼し、良質炭の存在が判明します。1880年(明治13)に、相田・庄司両村にまたがる鉱区を拡張し、高雄・伊岐須の両炭鉱を起業したとされ、1883年(明治16)には、帆足義方によって潤野炭鉱の採掘が始まりました。
しかし、1903年(明治36)1月17日にガス爆発事故が発生して死者64人を出したものの、1806年(明治39)8月に新たに穂波村枝国に深さ1,300尺の中央竪坑を開削を開始、1807年(明治40)中の出炭が、3億6,413万8,158斤(約21万8,483t)となります。1908年(明治41)当時、292万余坪の鉱区に高雄の第一坑・第二坑・潤野竪坑を擁し、鉱夫数2,719人(うち女子648人・幼者7人)が働いていて、1910年(明治43)には、中央竪坑(内径18尺5寸の円型煉瓦積構造)が竣工し、三菱方城炭鉱竪坑、筑豊炭鉱伊田竪坑と並んで筑豊の三大竪坑といわれていました。
1913年(大正2)2月6日に、再びガス爆発を起こし、死者101人・負傷者7人を出しましたが、1919年(大正8)4月に稲築斜坑の開削を開始し、1921年(大正10)には、稲築炭鉱での本格採炭が始まります。1934年(昭和9)に八幡製鉄所は、日本製鐵となりその付属炭鉱となり、1939年(昭和14)には、鉱山部門を日鉄鉱業として独立させ、同社の二瀬鉱業所に属する炭鉱となりました。
それから戦後に至るまで、中央、潤野、高雄の一・二坑および稲築坑の5坑による原料炭主体の生産態勢を続け、昭和30年代まで年産40万t程度を維持しています。しかし、石油へのエネルギー転換により、石炭産業の斜陽化が叫ばれる中で、1957年(昭和32)3月に稲築坑を渡辺鉱業に分離移譲、1961年(昭和36)には、潤野坑を閉山しました。
さらに、1963年(昭和38)1月14日に、二瀬炭鉱を閉山し、鉱員533人中240人は第二会社の高雄炭鉱に引き継がれ、1966年(昭和41)には、高雄中央坑・高雄2坑・高雄坑の順に閉山し、二瀬炭鉱の約70年におよぶ歴史の幕が閉じられています。潤野本鉱跡地は、福岡県立嘉穂高等学校・附属中学校などとなり、付近の枝国大田公園に、「製鉄所潤野坑慰霊碑」が建立されました。
明治時代前期の1874年(明治7)に松本潜が穂波郡相田村で相田炭鉱を経営したのにはじまり、1878~79年(明治11~12年)頃には、福岡県令渡辺清が、官営三池炭鉱技師ポッターを招いて鞍手・嘉麻両郡の地質を調査させた折、松本潜・安川敬一郎兄弟はポッターに相田炭鉱の調査を依頼し、良質炭の存在が判明します。1880年(明治13)に、相田・庄司両村にまたがる鉱区を拡張し、高雄・伊岐須の両炭鉱を起業したとされ、1883年(明治16)には、帆足義方によって潤野炭鉱の採掘が始まりました。
しかし、1903年(明治36)1月17日にガス爆発事故が発生して死者64人を出したものの、1806年(明治39)8月に新たに穂波村枝国に深さ1,300尺の中央竪坑を開削を開始、1807年(明治40)中の出炭が、3億6,413万8,158斤(約21万8,483t)となります。1908年(明治41)当時、292万余坪の鉱区に高雄の第一坑・第二坑・潤野竪坑を擁し、鉱夫数2,719人(うち女子648人・幼者7人)が働いていて、1910年(明治43)には、中央竪坑(内径18尺5寸の円型煉瓦積構造)が竣工し、三菱方城炭鉱竪坑、筑豊炭鉱伊田竪坑と並んで筑豊の三大竪坑といわれていました。
1913年(大正2)2月6日に、再びガス爆発を起こし、死者101人・負傷者7人を出しましたが、1919年(大正8)4月に稲築斜坑の開削を開始し、1921年(大正10)には、稲築炭鉱での本格採炭が始まります。1934年(昭和9)に八幡製鉄所は、日本製鐵となりその付属炭鉱となり、1939年(昭和14)には、鉱山部門を日鉄鉱業として独立させ、同社の二瀬鉱業所に属する炭鉱となりました。
それから戦後に至るまで、中央、潤野、高雄の一・二坑および稲築坑の5坑による原料炭主体の生産態勢を続け、昭和30年代まで年産40万t程度を維持しています。しかし、石油へのエネルギー転換により、石炭産業の斜陽化が叫ばれる中で、1957年(昭和32)3月に稲築坑を渡辺鉱業に分離移譲、1961年(昭和36)には、潤野坑を閉山しました。
さらに、1963年(昭和38)1月14日に、二瀬炭鉱を閉山し、鉱員533人中240人は第二会社の高雄炭鉱に引き継がれ、1966年(昭和41)には、高雄中央坑・高雄2坑・高雄坑の順に閉山し、二瀬炭鉱の約70年におよぶ歴史の幕が閉じられています。潤野本鉱跡地は、福岡県立嘉穂高等学校・附属中学校などとなり、付近の枝国大田公園に、「製鉄所潤野坑慰霊碑」が建立されました。
〇二瀬炭鉱(潤野炭鉱)関係略年表
・1874年(明治7) 松本潜が穂波郡相田村で相田炭鉱を経営する
・1878~79年(明治11~12年)頃 福岡県令渡辺清が,官営三池炭鉱技師ポッターを招いて鞍手・嘉麻両郡の地質を調査させた折,松本潜・安川敬一郎兄弟はポッターに相田炭鉱の調査を依頼し,良質炭の存在が判明する
・1880年(明治13) 相田・庄司両村にまたがる鉱区を拡張し、高雄・伊岐須の両炭鉱を起業したとされる
・1883年(明治16) 帆足義方によって潤野炭鉱の採掘が始まる
・1884年(明治17) 鉱山局技師山際永吾の調査に基いて,相田鉱区をさらに拡大して72万坪とする
・1886年(明治19) 大阪市の商家「加島屋」の広岡信五郎が潤野炭鉱として買収する
・1892年(明治25) 高尾第二坑が創業する
・1895年(明治28) 深さ520尺の潤野竪坑を開坑する
・1897年(明治30) 炭鉱規模は鉱区面積725,062坪、鉱夫数582人、出炭高日産85万斤(約510t)となり、これ以降は出炭量を大きく伸ばし、優良な炭鉱に変貌する
・1899年(明治32) 建設中の官営八幡製鉄所への石炭供給源として国に売却され、高雄炭鉱と潤野炭鉱を併せて、官営製鉄所二瀬炭鉱となる
・1903年(明治36)1月17日 ガス爆発事故が発生して死者64人を出す
・1806年(明治39)8月 新たに穂波村枝国に深さ1,300尺の中央竪坑を開削を開始する
・1807年(明治40) 本年中の出炭が、3億6,413万8,158斤(約21万8,483t)となる
・1908年(明治41) 当時、292万余坪の鉱区に高雄の第一坑・第二坑・潤野竪坑を擁し、鉱夫数2,719人(うち女子648人・幼者7人)が働いていた
・1910年(明治43) 中央竪坑(内径18尺5寸の円型煉瓦積構造)が竣工し、三井田川伊田竪坑、三菱方城と並んで筑豊の三大竪坑といわれた
・1913年(大正2)2月6日 再びガス爆発を起こし、死者101人・負傷者7人を出す
・1919年(大正8)4月 稲築斜坑の開削を開始する
・1921年(大正10) 稲築炭鉱での本格採炭が始まる
・1934年(昭和9) 八幡製鉄所は、日本製鐵となりその付属炭鉱となる
・1939年(昭和14) 鉱山部門を日鉄鉱業として独立させ、同社の二瀬鉱業所に属する炭鉱となる
・1957年(昭和32)3月 稲築坑を渡辺鉱業に分離移譲する
・1961年(昭和36) 潤野坑を閉山する
・1963年(昭和38)1月14日 二瀬炭鉱を閉山し、鉱員533人中240人は第二会社の高雄炭鉱に引き継がれる
・1966年(昭和41) 高雄中央坑・高雄2坑・高雄坑の順に閉山し、それぞれ石炭鉱業合理化事業団に閉山交付金を申請する
☆日本の主な炭鉱事故一覧
<明治時代>
・1899年6月15日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者210人]
・1907年7月20日 豊国炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者365人] 明治期最悪の事故
・1909年11月24日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者243人]
・1912年4月29日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者269人]
<大正時代>
・1912年12月23日 北炭夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者216人]
・1913年2月6日 二瀬炭鉱(福岡県)ガス爆発事故[死者101人・負傷者7人]
・1914年11月28日 新夕張炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者423人]
・1914年12月15日 方城炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者687人] 日本の近代史上最悪の事故
・1915年4月12日 東見初炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者235人]
・1917年12月21日 大之浦炭鉱(福岡県)爆発事故[死者・行方不明者369人]
・1920年6月14日 北炭夕張炭鉱北上坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者209人]
<昭和時代>
・1927年3月27日 内郷炭鉱(福島県)坑内火災[死者・行方不明者136人]
・1935年5月6日 大倉鉱業茂尻炭鉱鉱慶三坑(北海道)爆発事故[死者95人]
・1938年10月6日 北炭夕張炭鉱天竜坑(北海道)爆発事故[死者・行方不明者161人]
・1939年1月21日 筑豊炭田貝島大之浦炭鉱東三坑(福岡県)爆発事故[死者92人]
・1941年3月18日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者177人]
・1943年2月3日 長生炭鉱(山口県)海水流入事故[死者・行方不明者183人]
・1944年5月16日 美唄炭鉱(北海道)爆発事故[死者・行方不明者109人]
・1958年9月25日 池本鉱業大昇炭鉱(福岡県山田市)ガス爆発[死者14人]
・1960年9月20日 豊州炭鉱(福岡県)落盤[死者・行方不明者67人]
・1960年2月1日 北炭夕張炭鉱(北海道夕張市)ガス爆発[死者42人]
・1961年3月9日 上清炭鉱(福岡県)坑内火災[死者71人]
・1961年3月16日 大辻炭鉱(福岡県)坑内火災[死者26人]
・1963年11月9日 三井三池炭鉱(福岡県大牟田市)爆発事故[死者458人] 太平洋戦争後最悪の事故
・1965年2月22日 北海道炭砿汽船夕張鉱業所(北海道夕張市)爆発事故[死者・行方不明者62人]
・1965年6月1日 三井山野炭鉱(福岡県嘉穂郡稲築町)爆発事故[死者・行方不明者237人]
・1970年 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者5人・重軽傷者7人]
・1972年11月2日 石狩炭鉱石狩鉱業所(北海道空知郡奈井江町)ガス爆発事故[死者31人]
・1977年5月12日 三井芦別炭鉱(北海道芦別市)ガス爆発事故[死者25人・重傷者8人]
・1981年10月16日 北炭夕張新炭鉱(北海道夕張市)ガス突出・爆発事故[死者は93人]
・1984年1月18日 三井三池炭鉱有明抗(福岡県三池郡高田町)坑内火災[死者83人]
・1985年5月17日 三菱南大夕張炭鉱(北海道夕張市)爆発事故[死者62人]
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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