
結城昌治(ゆうき しょうじ)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)2月5日に、東京市品川区において生まれましたが、本名は田村幸雄(たむら ゆきお)と言いました。戸越小学校を経て、高輪商業学校にまなび、1945年(昭和20)に卒業しましたが、旧制高等学校受験に失敗し、海軍特別幹部練習生を志願したものの、身体再検査の結果帰郷を命ぜられ、空襲で自宅が焼失したため、敗戦まで栃木県那須に疎開します。
1946年(昭和21)に早稲田専門学校法律科(現在の早稲田大学法学部)に入学、1948年(昭和23)に卒業後、東京地方検察庁に事務官として就職したものの、1年足らずで肺結核となり、1949年(昭和24)に国立東京療養所に入院し、療養生活を送り、1951年(昭和26)に退所しました。1955年(昭和30)に勤めの傍らアテネフランセに通学し、1959年(昭和34)には、胃から吐血し、虎の門病院に入院、『寒中水泳』で、エラリイ・クイーンズ・ミステリー・マガジン第1回短編コンテストに入選、処女作品集『ひげのある男たち』を早川書房から刊行します。
1960年(昭和35)に東京地方検察庁を退職して作家専業となり、推理小説を発表、1962年(昭和37)に早川書房の「日本ミステリ・シリーズ」で、スパイ小説『ゴメスの名はゴメス』を書き下し、第47回直木賞候補となり、1963年(昭和38)には、『夜の終る時』で、第17回日本推理作家協会賞を受賞、日本推理作家協会が設立され常任理事となりました。1966年(昭和41)に『白昼堂々』で、第55回直木賞候補となり、1970年(昭和45)には、『軍旗はためく下に』で、第63回直木賞を受賞しています。
1978年(昭和53)に第一次「くちなし句会」を結成、『志ん生一代』で、第12回吉川英治文学賞候補となり、1983年(昭和58)には、第二次「くちなし句会」を結成(~1993年)しました。1985年(昭和60)に『終着駅』で、第19回吉川英治文学賞を受賞、1994年(平成6)には、紫綬褒章を受章しましたが、1996年(平成8)1月24日に、呼吸不全のため、68歳で亡くなっています。
1946年(昭和21)に早稲田専門学校法律科(現在の早稲田大学法学部)に入学、1948年(昭和23)に卒業後、東京地方検察庁に事務官として就職したものの、1年足らずで肺結核となり、1949年(昭和24)に国立東京療養所に入院し、療養生活を送り、1951年(昭和26)に退所しました。1955年(昭和30)に勤めの傍らアテネフランセに通学し、1959年(昭和34)には、胃から吐血し、虎の門病院に入院、『寒中水泳』で、エラリイ・クイーンズ・ミステリー・マガジン第1回短編コンテストに入選、処女作品集『ひげのある男たち』を早川書房から刊行します。
1960年(昭和35)に東京地方検察庁を退職して作家専業となり、推理小説を発表、1962年(昭和37)に早川書房の「日本ミステリ・シリーズ」で、スパイ小説『ゴメスの名はゴメス』を書き下し、第47回直木賞候補となり、1963年(昭和38)には、『夜の終る時』で、第17回日本推理作家協会賞を受賞、日本推理作家協会が設立され常任理事となりました。1966年(昭和41)に『白昼堂々』で、第55回直木賞候補となり、1970年(昭和45)には、『軍旗はためく下に』で、第63回直木賞を受賞しています。
1978年(昭和53)に第一次「くちなし句会」を結成、『志ん生一代』で、第12回吉川英治文学賞候補となり、1983年(昭和58)には、第二次「くちなし句会」を結成(~1993年)しました。1985年(昭和60)に『終着駅』で、第19回吉川英治文学賞を受賞、1994年(平成6)には、紫綬褒章を受章しましたが、1996年(平成8)1月24日に、呼吸不全のため、68歳で亡くなっています。
〇結城昌治の主要な著作
・『寒中水泳』(1959年)「エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン」コンテスト入選
・『長い長い眠り』(1960年)
・『仲のいい死体』(1961年)
・『ゴメスの名はゴメス』(1962年)第47回直木賞候補
・『夜の終る時』(1963年)第17回日本推理作家協会賞受賞
・『軍旗はためく下に』(1970年)第63回直木賞受賞
・伝記小説『志ん生(しんしょう)一代』(1976年)第12回吉川英治文学賞候補
・『終着駅』(1984年)第19回吉川英治文学賞受賞
・連作推理小説集『修羅の匂い』(1990年)
・短編集『エンドレス』(1991年)
・連作推理小説集『決着』(1993年)
・句集『余色(よしょく)』(1993年)
・『出来事』(1994年)
・『俳句は下手でかまわない』(1997年)
☆結城昌治関係略年表
・1927年(昭和2)2月5日 東京市品川区において、生まれる
・1939年(昭和14) 戸越小学校卒業したが、旧制中学受験に失敗する
・1940年(昭和15) 高輪商業学校へ入学する
・1945年(昭和20) 高輪商業学校を卒業したが、旧制高等学校受験に失敗し、海軍特別幹部練習生を志願したものの、身体再検査の結果帰郷を命ぜられ、空襲で自宅が焼失したため、敗戦まで栃木県那須に疎開する
・1946年(昭和21) 早稲田専門学校法律科(現在の早稲田大学法学部)入学する
・1948年(昭和23) 東京地方検察庁に事務官として就職するが、1年足らずで肺結核となる
・1949年(昭和24) 国立東京療養所に入院し、療養生活を送る
・1951年(昭和26) 国立東京療養所を退所する
・1955年(昭和30) 勤めの傍らアテネフランセに通学する
・1959年(昭和34) 胃から吐血し、虎の門病院に入院、『寒中水泳』で、エラリイ・クイーンズ・ミステリー・マガジン第1回短編コンテストに入選、処女作品集『ひげのある男たち』を早川書房から刊行する
・1960年(昭和35) 東京地方検察庁を退職して作家専業となり、推理小説を発表する
・1962年(昭和37) 早川書房の「日本ミステリ・シリーズ」で、スパイ小説『ゴメスの名はゴメス』を書き下し、第47回直木賞候補となる
・1963年(昭和38) 『夜の終る時』で、第17回日本推理作家協会賞を受賞、日本推理作家協会が設立され常任理事となる
・1966年(昭和41) 『白昼堂々』で、第55回直木賞候補となる
・1970年(昭和45) 『軍旗はためく下に』で、第63回直木賞を受賞する
・1978年(昭和53) 第一次「くちなし句会」を金原亭馬生、青木雨彦、高橋呉郎、大泉拓、村上豊、青柳純一、小田島雅和と結成、『志ん生一代』で、第12回吉川英治文学賞候補となる
・1983年(昭和58) 第二次「くちなし句会」を青柳純一、小田島雅和、園山俊二、石田種生、加賀美尚、山根一眞、平井宏と結成する
・1985年(昭和60) 『終着駅』で、第19回吉川英治文学賞を受賞する
・1994年(平成6) 紫綬褒章を受章する
・1996年(平成8)1月24日 呼吸不全のため、68歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1632年(寛永9) | 武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日) | 詳細 | |||||
1865年(元治2) | 長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行される(新暦2月19日) | 詳細 | |||||
1869年(明治2) | 詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日) | 詳細 | |||||
1871年(明治4) | 「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日) | 詳細 | |||||
1911年(明治44) | 大逆事件によって、幸徳秋水、宮下太吉ら11名の処刑が行われる | 詳細 | |||||
1942年(昭和17) | 「国民錬成所官制」により、文部省に国民錬成所を設置し、中学教員に対する錬成を実施するとされる | 詳細 | |||||
1960年(昭和35) | 小説家火野葦平の命日 | 詳細 |
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