今日は、平成時代の2006年(平成18)に、漫画家・放送タレント加藤芳郎の亡くなった日です。
加藤芳郎(かとう よしろう)は、大正時代の1925年(大正14)6月25日 東京府豊多摩郡代々幡町(のちの東京都渋谷区)において、公務員の家庭に生まれ、幼い頃から絵を描くのが好きでした。10歳の頃に父親が定年を迎え、嘱託契約に切り替わって以降は、生活が苦しくなり、病院の給仕として昼間に働きながら、旧制東京府立第六中学校夜間部に通学するようになります。
1939年(昭和14)に雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取ったのを契機として、投稿を重ね「週刊少国民」「オール讀物」「モダン日本」などで入選を重ね、1941年(昭和16)には、近藤日出造編集の月刊誌「漫画」に投稿し1等となりました。中学卒業後、川端画学校で学び、1943年(昭和18)には、東京都防衛局に就職し、夜は画学校に通います。
しかし、1944年(昭和19)に召集されて、中国へ従軍し、1945年(昭和20)に復員、東京都公園緑地課に勤務の傍ら漫画を描き続けました。1948年(昭和23)に東京都職員を退職し、フリーの漫画家生活に入り、1951年(昭和26)に『あほだら兄弟』を講談社『キング』に描き、1954年(昭和29)には、「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』(~1960年)、「毎日新聞」夕刊に、四コマ漫画『まっぴら君』(~2001年)の連載を開始します。
1957年(昭和32)に『芳郎傑作漫画集』で、第3回文藝春秋漫画賞を受賞、1968年(昭和43)から、NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1969年、1970~1991年)となりました。1975年(昭和50)から日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」の司会(~1984年)を担当し、1981年(昭和56)には、日本漫画家協会の理事長となります。
1986年(昭和61)に紫綬褒章を受章、1988年(昭和63)に第36回菊池寛賞、1989年(平成元)にNHK放送文化賞を受賞し、1992年(平成4)には、日本漫画家協会の会長(~1996年)となりました。1996年(平成8)に勲四等旭日小綬章を受章、1999年(平成11)に四コマ漫画「まっぴら君」で、第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞、2000年(平成12)には、東京都文化賞を受賞します。
2001年(平成13)には、「毎日新聞」夕刊四コマ漫画『まっぴら君』の連載を病気で終了し、2006年(平成18)1月6日に、東京都新宿区の病院において、呼吸不全のため80歳で亡くなりました。
1939年(昭和14)に雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取ったのを契機として、投稿を重ね「週刊少国民」「オール讀物」「モダン日本」などで入選を重ね、1941年(昭和16)には、近藤日出造編集の月刊誌「漫画」に投稿し1等となりました。中学卒業後、川端画学校で学び、1943年(昭和18)には、東京都防衛局に就職し、夜は画学校に通います。
しかし、1944年(昭和19)に召集されて、中国へ従軍し、1945年(昭和20)に復員、東京都公園緑地課に勤務の傍ら漫画を描き続けました。1948年(昭和23)に東京都職員を退職し、フリーの漫画家生活に入り、1951年(昭和26)に『あほだら兄弟』を講談社『キング』に描き、1954年(昭和29)には、「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』(~1960年)、「毎日新聞」夕刊に、四コマ漫画『まっぴら君』(~2001年)の連載を開始します。
1957年(昭和32)に『芳郎傑作漫画集』で、第3回文藝春秋漫画賞を受賞、1968年(昭和43)から、NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1969年、1970~1991年)となりました。1975年(昭和50)から日本テレビ「テレビ三面記事 ウィークエンダー」の司会(~1984年)を担当し、1981年(昭和56)には、日本漫画家協会の理事長となります。
1986年(昭和61)に紫綬褒章を受章、1988年(昭和63)に第36回菊池寛賞、1989年(平成元)にNHK放送文化賞を受賞し、1992年(平成4)には、日本漫画家協会の会長(~1996年)となりました。1996年(平成8)に勲四等旭日小綬章を受章、1999年(平成11)に四コマ漫画「まっぴら君」で、第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞、2000年(平成12)には、東京都文化賞を受賞します。
2001年(平成13)には、「毎日新聞」夕刊四コマ漫画『まっぴら君』の連載を病気で終了し、2006年(平成18)1月6日に、東京都新宿区の病院において、呼吸不全のため80歳で亡くなりました。
〇加藤芳郎の主要な著作
<漫画集>
・『あほだら漫画集』(1955年)
・現代漫画 第1期4巻『加藤芳郎集』(1969年)
<エッセイ>
・『雷おやじの本』(1982年)
・『加藤芳郎のまっぴらごめん』(1984年)
☆加藤芳郎関係略年表
・1925年(大正14)6月25日 東京府豊多摩郡代々幡町(のちの東京都渋谷区)において、公務員の家庭に生まれる
・1939年(昭和14) 雑誌『アサヒグラフ』の投稿欄に漫画が掲載され、賞金を受け取る
・1941年(昭和16) 近藤日出造編集の月刊誌『漫画』に投稿し1等となる
・1943年(昭和18) 東京都防衛局に就職し、夜は川端画学校に通う
・1944年(昭和19) 召集されて、中国へ従軍する
・1945年(昭和20) 中国から復員、東京都公園緑地課に勤務の傍ら漫画を描きつづける
・1948年(昭和23) 東京都職員を退職し、フリーの漫画家生活に入る
・1951年(昭和26) 『あほだら兄弟』を講談社『キング』に描く
・1954年(昭和29) 「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』、「毎日新聞」夕刊に、四コマ漫画『まっぴら君』の連載を開始する
・1957年(昭和32) 『芳郎傑作漫画集』で、第3回文藝春秋漫画賞を受賞する
・1960年(昭和35) 「サンデー毎日」にホームレスの生活を描く『オンボロ人生』の連載が終わる
・1968年(昭和43) NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1969年)となる
・1970年(昭和45) 再び、NHKテレビ『連想ゲーム』の白組・男性軍のキャプテン(~1991年)となる
・1975年(昭和50) 「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)の司会を担当する
・1981年(昭和56) 日本漫画家協会の理事長となる
・1984年(昭和59) 「テレビ三面記事 ウィークエンダー」(日本テレビ)の司会が終わる
・1986年(昭和61) 紫綬褒章を受章する
・1988年(昭和63) 第36回菊池寛賞を受賞する
・1989年(平成元) NHK放送文化賞を受賞する
・1992年(平成4) 日本漫画家協会の会長(~1996年)となる
・1996年(平成8) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1999年(平成11) 四コマ漫画「まっぴら君」で、第28回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞する
・2000年(平成12) 東京都文化賞を受賞する
・2001年(平成13) 「毎日新聞」夕刊四コマ漫画『まっぴら君』の連載を病気で終了する
・2006年(平成18)1月6日 東京都新宿区の病院において、呼吸不全のため80歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
757年(天平宝字元) | 皇族・公卿・歌人橘諸兄の命日(新暦1月30日) | 詳細 | |||||
1215年(建保3) | 鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日) | 詳細 | |||||
1822年(文政5) | 洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の命日(新暦2月27日) | 詳細 | |||||
1831年(天保2) | 禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日) | 詳細 | |||||
1902年(明治35) | 生態学者・文化人類学者・登山家・探検家今西錦司の誕生日 | 詳細 | |||||
1977年(昭和52) | 国鉄が「一枚のキップから」キャンペーンを開始する | 詳細 | |||||
2010年(平成22) | 鋳金作家蓮田修吾郎の命日 | 詳細 |
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