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 今日は、大正時代の1914年(大正3)に、駿河湾汽船「愛鷹丸」が、強風と波浪により沈没(愛鷹丸沈没事故)し、死者・行方不明者121人を出した日です。
 愛鷹丸沈没事故(あしたかまるちんぼつじこ)は、大正時代の1914年(大正3)1月5日午後に、駿河湾汽船「愛鷹丸」が、静岡県の駿河湾の戸田沖で沈没した事故です。伊豆半島の土肥港(現在の伊豆市)を午後1時半頃に出港し、戸田港(現在の沼津市)に向け航行中の駿河湾汽船「愛鷹丸」(総トン数57t、旅客定員26人の貨客船)が、定員の5倍以上の146人を乗せて航行中、西南からの強風と波浪により戸田沖で沈没しました。
 同船に続いて航行していた東京湾汽船所有の「芙蓉丸」が、直ちに救助に向かい乗客25人を救助、5人の遺体を収容しましたが、残り116人は行方不明となります。尚、静岡県沼津市内浦に、「愛鷹丸沈没事故慰霊碑」が建立されました。
 以下に、この愛鷹丸沈没事故について記述した、岡本綺堂著『春の修善寺』の該当部分を抜粋掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇岡本綺堂著『春の修善寺』の中の愛鷹丸沈没事故の部分を抜粋

 十年ぶりで三島駅から大仁(おおひと)行の汽車に乗換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場駅附近を過ぎると、ここらももう院線の工事に着手しているらしく、路(みち)ばたの空地に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫(ふる)えている小さい竹藪は、折からの強い西風にふき煽(あお)られて、今にも折れるかとばかりに撓(たわ)みながら鳴っている。広い桑畑には時々小さい旋風をまき起して、黄竜のような砂の渦が汽車を目がけて直驀地(まっしぐら)に襲って来る。
 この如何(いか)にも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているというのびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかには沼津の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸あしたかまる)が駿河湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
 沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田に潜伏していたが、ある時なにかの動機から飜然悔悟した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいという。かれはすぐに下田の警察へ駆込んで過去の罪を自首したが、それはもう時效を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞きあわせると、当時の被害者は疾(と)うに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
 元来、彼は沼津の生れではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立して、自分の安心を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、いくらかの金を作った。彼はその金をふところにして彼の愛鷹丸に乗込むと、駿河の海は怒って暴れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナを乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも罪ある人ばかりでなく、乗組の大勢をも併せて海のなかへ投げ落としてしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引きあげられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
 これを話した人は、彼の死はその罪業の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどにむごいものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。南条駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟(すなけむり)が巻き颺(あが)っている。その黄(きいろ)い渦が今は仄白くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套の羽をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
 三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振照す提灯(ちょうちん)の火のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自働車に乗った。

 (以下略)

   「青空文庫」より

☆明治・大正時代に日本近海で起きた重大海難事故一覧(死者・行方不明者100人以上)

・1878年(明治11)12月24日 - 和歌山県太地村でセミクジラを捕獲するため19隻・総勢184名で出漁、荒天による集団遭難事故(大背美流れ)<死者・行方不明者100余人>
・1890年(明治23)9月16日 - 和歌山県樫野埼灯台付近で荒天下、トルコ海軍艦「エルトゥールル号」が座礁沈没(エルトゥールル号遭難事件)<乗員約600人中、死者・行方不明者587人>
・1891年(明治24)7月11日 - 白神岬沖2.8kmの津軽海峡で「瓊江丸」と「三吉丸」が衝突し「瓊江丸」が沈没<死者・行方不明者261人>
・1905年(明治38)8月22日 - 瀬戸内海姫島灯台付近でイギリス船「バラロング」と軍用船「金城丸」が衝突し「金城丸」が沈没<死者・行方不明者165人>
・1908年(明治41)3月23日 - 北海道恵山岬灯台北東沖で客船「陸奥丸」と「秀吉丸」が衝突し「陸奥丸」が沈没<死者・行方不明者212人>
・1914年(大正3)1月5日 - 静岡県の駿河湾で、汽船「愛鷹丸」が強風のため横転沈没<死者・行方不明者121人>
・1922年(大正11)8月26日 - カムチャツカ半島で漁業保護任務中の巡洋艦「新高」がオジョールナヤ基地沖で停泊中に暴風に遭遇し走錨。海岸に座礁、転覆<死者・行方不明者327人>
・1926年(大正15)4月26日 - 幌筵島沖を航行中の蟹工船「秩父丸」が座礁沈没<死者・行方不明者182人>

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1348年(正平3)楠木正成の子・楠木正行が高師直軍との四条畷の戦いに敗れ自刃(新暦2月4日)詳細
1593年(文禄2)第106代の天皇とされる正親町天皇の命日(新暦2月6日)詳細
1927年(昭和2)有機化学者向山光昭が誕生日詳細
1963年(昭和38)「三八豪雪」が始まり、日本海側に記録的大雪をもたらす詳細
1974年(昭和49)中国の北京において、「日中貿易協定」が締結(同年6月22日発効)される詳細
1978年(昭和53)陶芸家・人間国宝濱田庄司の命日詳細
1995年(平成7)地球物理学者・歌人和達清夫(筆名:西須諸次)の命日詳細