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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、新婦人協会が内部対立のために解散した日です。
 新婦人協会(しんふじんきょうかい)は、大正時代に日本で最初に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体でした。1919年(大正8)11月24日に平塚らいてうが呼びかけ、市川房枝、奥むめお、坂本真琴、山田わからが応じて、活動を始めます。
 1920年(大正9)3月28日に、70名(内男子約20名)が集まって発会式を行い、宣言、綱領、規約(全21条)を発表し、その後、名古屋、大阪、神戸、福山、三原、広島に支部が出来、会員は400名を数えるようになりました。男女同権、母性保護、女性の権利向上等を掲げ、最初の運動として、女子の政治的活動を封じている「治安警察法」5条の改正と花柳病にかかった男子の結婚制限問題に取り組みます。
 また、機関紙『女性同盟』の発刊や講演会等によって、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めました。その結果、1922年(大正11)の第45帝国議会で「治安警察法」5条の一部改正を成立させ、女子も政談演説会を聴く自由とその発起人になる権利を獲得しています。
 しかし、同年12月8日に内部対立のため解散するに至りましたが、約3年間の活動だったものの、日本の婦人参政権運動史上に大きな役割を果たしました。

〇新婦人協会創立当初の役員

<理事>
 平塚明(平塚らいてう)、市川房枝、奥むめお
<評議員>
 坂本真琴、加藤さき子、平山信子、山田わか、吉田清子、田中孝子、矢部初子、塚本なか子、山田美都

〇新婦人協会の宣言

 婦人も亦婦人全体のために、その正しき義務と権利の遂行のために団結すべき時が来ました。今こそ婦人は婦人自身の教養、その自我の充実を期するのみならず、相互の堅き団結の力によって、その社会的地位の向上改善を計り、婦人としての、母としての権利の獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります。
 若しこの時に於いて、婦人が立たなければ、到来の社会もまた婦人を除外した男子中心のものとなるに相違ありません。そしてそこに世界、人類の禍の大半が置かれるのだと思います。
 私共は日本婦人がいつまで無知無能であるとは信じません。否、既に我が婦人界は今日見るべき学識あり、能力ある幾人かの新婦人を有ってゐます。しかも私共は是等の現われたる婦人以外に、なお多くの更に識見高き、思慮あり、実力ある隠れたる婦人のあることを疑ひません。
 しかるに是等の婦人の力が一つとして社会的に若しくは社会的勢力となって活動して来ないのは何故でありませう。まったく婦人相互の間に何の連絡も無く、各自孤立の状態にあって、少しもその力を婦人共同の目的のために一つにしやうというやうな努力もなく、又そのための機関もないからではないでせうか。私共はさう信ずるものであります。
 是私共が微力を顧みず、同志を糾合し、つとに婦人の団体的活動の一機関として「新婦人協会」を組織し、婦人相互の団結をはかり、堅忍自給の精神をもって、婦人擁護のため、その進歩向上のため、あるいは利益の増進、権利の獲得のため努力し、その目的を達っせんことを期する所以であります。

〇新婦人協会の綱領

一、婦人の能力を自由に発達せしめるため男女の機会均等を主張すること。
一、男女の価値同等観の上に立ちてその差別を認め協力を主張すること。
一、家庭の社会的意義を闡明(せんめい)にすること。
一、婦人、母、子供の権利を雍護し、彼等の利益の増進を計ると共に之に反する一切を排除すること。

〇新婦人協会の規約(事業内容)

一、女子高等教育、小学大学の男女共学、婦人参政権、婦人に不利なる諸法制の改廃、母性保護等の要求をなすために実際運動を開始すること。
一、各地の有力なる婦人団体と連絡を計り、婦人共同の利益に対する日本婦人総同盟を組織すること。
一、婦人に関する諸種の特種問題の研究調査会を設くる事。
一、婦人問題、労働問題、生活問題及其他諸種の社会問題に関する講演会を各地にて開くこと。
一、機関雑誌「女性同盟」の発刊。
一、婦人労働者の教化機関として学校を設置し、婦人労働新聞を発刊し、健全にして実力ある婦人労働組合を組織する基礎を造る事。
一、婦人身上相談、職業紹介、結婚媒介。
一、女子大学講座の開設。
一、事務所、公会所、教室、婦人共同寄宿所、婦人簡易食堂、娯楽所、運動場、図書館等を含む婦人会館の建設。

                 児玉勝子著『婦人参政権運動小史』より

☆平塚らいてふ(ひらつか らいちょう)とは?

 明治時代後期から昭和時代に活躍した評論家・婦人解放運動家です。明治時代前期の1886年(明治19)2月10日に、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)で、会計検査院高官だった父・平塚定二郎と母・光沢の3女として生まれましたが、本名は明(はる)と言いました。
 知的で裕福な家庭で、ハイカラで自由な環境で育ち、東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)を経て、1903年(明治36)に日本女子大学校家政学部へ入学しました。しかし、良妻賢母教育に失望して、文学、哲学、宗教などの本を読み、参禅し自我を追求、1906年(明治39)に卒業します。
 その後、英語を学びましたが、1908年(明治41)に森田草平との心中未遂事件(煤煙事件)を起こしました。1911年(明治44)に生田長江にすすめられ、母から資金提供を受け、婦人文芸集団青鞜社を興し、雑誌『青鞜』を発刊以後、編集と経営にあたります。
 その創刊の辞「元始女性は太陽であつた――青鞜発刊に際して――」は、「新しい女」の出現を主張し、今日に至る女権宣言となりました。1914年(大正3)には、5歳年下の画学生奥村博史と法律によらない自由な結婚を実践、1男1女をもうけています。
 1920年(大正9)に、市川房枝、奥むめおらと新婦人協会を発足させ、婦人参政権運動に取り組みました。1930年(昭和5)に高群逸枝らの無産婦人芸術連盟に参加して『婦人戦線』に関与、また協同自治社会の理想をめざして、成城に消費組合を設立しています。
 太平洋戦争後は、反戦・平和運動に力を注ぎ、1953年(昭和28)に日本婦人団体連合会会長、1962年(昭和37)には、野上弥生子、いわさきちひろ、岸輝子らとともに「新日本婦人の会」を結成しました。晩年まで、安保条約廃棄やベトナム反戦運動に関わりましたが、1971年(昭和46)5月24日に、東京において、85歳で亡くなっています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1924年(大正13)詩人・児童文学者・伝道師山村暮鳥の命日詳細
1941年(昭和16)「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」が発せられ、太平洋戦争が始まる(太平洋戦争開戦記念日)詳細
1943年(昭和18)東条英機の大東亜戦争二週年記念講演が、全国にラジオ放送される詳細
1945年(昭和20)GHQが「救済並福祉計画ノ件」(SCAPIN-404)を指令する詳細
1958年(昭和33)国道20号線の新笹子隧道[一般有料道路笹子トンネル](全長2,953m)が開通する詳細
1990年(平成2)歌人・国文学者土屋文明の命日詳細
2008年(平成20)初めて7地域が日本ジオパークに決まり、内3地域を世界ジオパークへ推薦する詳細