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 今日は、明治時代後期の1910年(明治43)に、石川啄木著の第一歌集『一握の砂』が東雲堂書店より刊行された日です。
 『一握の砂』(いちあくのすな)は、石川啄木の第一歌集で、明治時代後期の1908~10年の作品551首を、テーマ別に5章(「我を愛する歌」「煙」「秋風のこころよさに」「忘れがたき人人」「手套を脱ぐ時」)に編集していて、1910年(明治43)に東雲堂書店より刊行されました。東京時代の都会生活の哀歓を歌った作品と故郷追懐(渋民村、盛岡、北海道)の歌で構成され、1首3行書きという独特な表記法を初めて示し、歌人としての名声を得ます。
 口語的発想へ接近、新しいリズムと視覚の目新しさを生じさせ、国民のより広い層に親しまれることとなりました。尚、岩手県盛岡市にある「石川啄木記念館」に関連する資料が展示されています。

<収載されている代表的な歌>
・「東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 」
・「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」
・「石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし」
・「はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る」
・「いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ」
・「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きに ゆく」
・「友がみな 我よりえらく みゆる日よ 花を買いきて 妻としたしむ」

〇『一握の砂』の冒頭部分

+目次

函館なる郁雨宮崎大四郎君
同国の友文学士花明金田一京助君

この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。
また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。
著者

明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首を抜きてこの集に収む。集中五章、感興の来由するところ相邇ちかきをたづねて仮にわかてるのみ。「秋風のこころよさに」は明治四十一年秋の紀念なり。

  「青空文庫より」

☆石川啄木(いしかわ たくぼく)とは?

 明治時代後期の歌人で、本名は、石川一といい、1886年(明治19)2月20日、岩手県南岩手郡日戸村(現在の岩手県盛岡市)の常光寺で生まれました。その後、渋民村に移住し、宝徳寺で育ち、岩手県盛岡尋常中学校(現在の盛岡一高)に学びます。
 中学中退後は、明星派の詩人として出発し、20歳で処女詩集『あこがれ』を出版、詩人として将来を期待されるようになりました。しかし、生活は厳しく、郷里の岩手県渋民村の代用教員や北海道の地方新聞の記者などを転々とした後で、1908年(明治41)上京し、東京朝日新聞の校正係の職に就きます。
 1910年(明治43)に、歌集「一握の砂」を出版し注目されました。大逆事件で社会主義思想に接近しますが、1912年(明治45)4月13日、困窮のうちに結核により、26歳の若さで死去しています。
 代表作に、評論「時代閉塞の現状」、歌集『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』、小説「雲は天才である」などがあります。

<代表的な歌>
・「呼吸すれば、/胸の中にて鳴る音あり。/凩よりもさびしきその音!」
・「眼閉づれど、/心にうかぶ何もなし。/さびしくもまた、眼をあけるかな」
・「新しき明日の来るを信ずといふ/自分の言葉に/嘘はなけれど――」
・「地図の上 朝鮮国に くろぐろと 墨を塗りつつ 秋風を聴く」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1267年(文永4)第91代の天皇とされる後宇多天皇の誕生日(新暦12月17日)詳細
1903年(明治36)小説家小林多喜二の誕生日詳細
1934年(昭和9)東海道本線の丹那トンネル(熱海~函南)が開通する詳細
1941年(昭和16)昭和天皇臨席の第8回御前会議で「対英米蘭開戦の件」を決定する詳細
1952年(昭和27)石橋正二郎より寄贈を受けて、国立近代美術館(現在の東京国立近代美術館)が中央区京橋に開館する詳細
1959年(昭和34)南極の非軍事利用を取り決めた「南極条約」に、日・英・米など12ヶ国が調印する詳細
1977年(昭和52)小説家海音寺潮五郎の命日詳細