今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、医師・細菌学者秦佐八郎が亡くなった日です。
秦佐八郎(はた さはちろう)は、明治時代前期の1873年(明治6)3月23日に、島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれましたが、本姓は山根でした。しかし、1887年(明治20)に同村の医家秦徳太・ツタの養子となり、秦姓となっています。
1895年(明治28)に岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊(東京)に入営しました。1897年(明治30)には、岡山に戻って、岡山県立病院に勤務するようになります。
1898年(明治31)に、上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事、1903年(明治36)には、国立血清薬院部長を兼任しました。1904年(明治37)に日露戦争に従軍し、南満州(現在の中国東北部)各地に赴いた後、1907年(明治40)には、国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学びます。
その後、エールリヒ、さらにヤコビーのもとで研究し、1910年(明治43)には、サルバルサンを発見、ドイツ学会に発表後、日本へ帰国しました。1911年(明治44)にサルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受章、1912年(明治45)には、学位論文「螺旋菌病のヘモテラピー」により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与されています。
1913年(大正2)に国産のサルバルサンを製造することに協力し、日本結核予防協会設立に参画、1914年(大正3)には、伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となりました。1915年(大正4)に国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売します。
1920年(大正9)に慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じ、1926年(大正15)には、ドイツ帝国自然科学院会員に推されました。1931年(昭和6)に恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任、1933年(昭和8)には、帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受けます。
1934年(昭和9)に深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞、1935年(昭和10)には、財団法人保生会創設に参画、常務理事長となったものの、1938年(昭和13)11月22日に、東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなりました。
1895年(明治28)に岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚、一年志願兵として近衛歩兵第1連隊(東京)に入営しました。1897年(明治30)には、岡山に戻って、岡山県立病院に勤務するようになります。
1898年(明治31)に、上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事、1903年(明治36)には、国立血清薬院部長を兼任しました。1904年(明治37)に日露戦争に従軍し、南満州(現在の中国東北部)各地に赴いた後、1907年(明治40)には、国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学びます。
その後、エールリヒ、さらにヤコビーのもとで研究し、1910年(明治43)には、サルバルサンを発見、ドイツ学会に発表後、日本へ帰国しました。1911年(明治44)にサルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受章、1912年(明治45)には、学位論文「螺旋菌病のヘモテラピー」により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与されています。
1913年(大正2)に国産のサルバルサンを製造することに協力し、日本結核予防協会設立に参画、1914年(大正3)には、伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となりました。1915年(大正4)に国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売します。
1920年(大正9)に慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じ、1926年(大正15)には、ドイツ帝国自然科学院会員に推されました。1931年(昭和6)に恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任、1933年(昭和8)には、帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受けます。
1934年(昭和9)に深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞、1935年(昭和10)には、財団法人保生会創設に参画、常務理事長となったものの、1938年(昭和13)11月22日に、東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなりました。
〇秦佐八郎の主要な著作
・エールリッヒ共著のドイツ語書『スピロヘーターの実験化学療法』(1910年)
・『化学療法ノ研究』(1911年)
・『サルヴァルサン療法』(1913年)
・『黴毒ノ診断 黴毒ノ療法』(1915年)
☆秦佐八郎関係略年表
・1873年(明治6)3月23日 島根県美濃郡都茂村(現在の益田市)において、豪農だった父・山根道恭、母・ヒデの8男として生まれる
・1887年(明治20) 同村医家 秦徳太・ツタの養子となる
・1891年(明治24) 岡山第三高等中学校医学部に入学する
・1895年(明治28) 岡山第三高等中学校医学部を卒業して医師となり、秦徳太の長女チヨと結婚する
・1897年(明治30) 岡山県立病院に勤務する
・1898年(明治31) 上京して大日本私立衛生会・伝染病研究所に入所し、北里柴三郎所長に師事する
・1903年(明治36) 国立血清薬院部長を兼任する
・1904年(明治37) 日露戦争従軍・南満州(現中国)各地に赴く
・1907年(明治40) 国立伝染病研究所第三部長となり、ドイツへ留学してワッセルマンに学ぶ
・1910年(明治43) ドイツ国立実験治療研究所でエールリッヒ博士を扶けてサルバルサンを発見、ドイツ学会に発表、日本へ帰国する
・1911年(明治44) サルバルサン発見の功績により、勲5等双光旭日章を受ける
・1912年(明治45) 学位論文『螺旋菌病のヘモテラピー』により、東京帝国大学医科大学(現在の東京大学大学院医学系研究科・医学部)から医学博士の学位を授与される
・1913年(大正2) 国産のサルバルサンを製造することになり、協力し、日本結核予防協会設立に参画する
・1914年(大正3) 伝染病研究所移管に伴い北里所長と共に総辞職し、北里研究所が創立され、部長となる
・1915年(大正4) 国と鈴木梅太郎と三共の協力を得て国産化に取り組んでいたサルバルサンの製造に成功し、アルサミノールの名で販売する
・1920年(大正9) 慶應義塾大学医学部教授に就任し、細菌学、免疫学を講じる
・1921年(大正10) 極東熱帯医学会に出席のためインドネシア・ジャワ・バタビヤに出張する
・1923年(大正12) アメリカ・ロックフェラー財団の招きで同国とカナダの医事衛生視察する
・1926年(大正15) ドイツ帝国自然科学院会員に推される
・1928年(昭和3) ドイツで開催された国際連盟主催、サルバルサン標準国際会議に出席する
・1931年(昭和6) 恩師北里柴三郎博士が亡くなり、北里研究所副所長に就任する
・1933年(昭和8) 帝国学士院(のちの日本学士院)会員に勅選され終身勅任官待遇を受ける
・1934年(昭和9) 深達性消毒薬の研究で、浅川賞を受賞する
・1935年(昭和10) 財団法人保生会創設に参画、常務理事長となる
・1938年(昭和13)11月22日 東京の慶応大学付属病院において、65歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1724年(享保9) | 浄瑠璃・歌舞伎作者近松門左衛門の命日(新暦1725年1月6日) | 詳細 |
1917年(大正6) | 江戸幕府15代将軍・公爵徳川慶喜の命日 | 詳細 |
1941年(昭和16) | 「国家総動員法」第5条に基づいて、「国民勤労報国協力令」が交布(施行は同年12月1日)される | 詳細 |
1944年(昭和19) | 米・英・中首脳による日本の戦後処理についてのカイロ会談が始まる | 詳細 |
1945年(昭和20) | 「農地制度改革ニ関スル件」が閣議決定される | 詳細 |
GHQ「救済配給のために保管されている予備物資に関する覚書」が指令される | 詳細 | |
1969年(昭和44) | 「沖縄返還に関する屋良朝苗琉球政府主席声明」が出される | 詳細 |
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